やっと、朝夕は涼しげな風を感じられるようになってきました。本当に暑い夏でした。
このまま年ごとに暑さが増してくるのでしょうか・・・四季の訪れが楽しみなこの国の気候も変わってしまう様な、今の気候変動です。
とりわけ、秋の気配は、夏の名残の中で感じられる一年で一番気持ちの良い時と思う人も多いでしょう。
あたりの木々の紅葉を見られるのはいつ頃になるでしょうか、もしかしたら一気に冷え込むことで、より美しく鮮やかになるのかもしれませんね。
そんな、木々の中の、小さな一本の木のお話しです。
ちいさな木が 一本 はえていました。もう 何年も、そこに はえていました。
でも、その木は ずっと ちいさなままでした。
ある時、いっぴきの犬が ちいさな木のそばにきて いいました。
「ぼく、ゴッチ。つなを くいちぎって、家出したんだよ。
これから じぶんのすきなところに いくんだ」
「じ、ぶ、ん、の、す、き、な、と、こ、ろ? いいな、わたしも いきたーい!」
むりだと あきらめかけた ちいさな木に「やってみなくちゃ わかんないよ」とゴッチは
いいながら、いきなり 土を がりがりと ほりはじめました。
ちいさな木は ねっこを ひきぬいて 「イッポ イッポ」と あしぶみしました。
「いこうよ!」ゴッチはいいました。「きみの なまえは?」
「わたしは‥‥‥キッコ。キッコって、よんでちょうだい」
ふたりは 歩きだしました。
ゴッチは、スタン スタン スタン キッコは、イッポ イッポ イッポ
ふたりは いきたいほうに どこまでも どこまでも 歩いていけそうです。
「ねえ、わたしたち、どこまで いくのかしら」
「そりゃ、すきなところが みつかるまでさ」
すわって やすんでいた岩が ぐらっと ゆれました。
「すきなところに いくなんて・・・いいなあ!あ、ぼくは、イワオです」
「それなら、いっしょに いこうぜ」
「むり むり」と イワオ。「やりたいことは やればいい」と ゴッチ。
そのとたん、イワオは ゴロンチョって、いっぽ 歩きました。
スタン スタン スタン イッポ イッポ イッポ ゴロンチョ ゴロンチョ ゴロンョ
つめたい風がふいても、つめたい雨がふっても、みんな 前を向いて 歩きました。
「あのー」どこからか 声がします。
ちいさな まっさおな沼が おいで おいで と なみを うごかしています。
「わたしは イッテキって いうんです」
イッテキも じぶんはここから うごけないとおもって あきらめかけたのに
「だいじょうぶよ。いきたければ いけるわ」キッコは じぶんのえだを イッテキのなかに いれました。
すると イッテキは えだにつかまって すーっと たちあがりました。
スタン スタン スタン イッポ イッポ イッポ ゴロンチョ ゴロンチョ ゴロンョ
イッテキは ポチョンチョ ポチョンチョ ポチョンチョ
「あっ!わたし、ここがすき!」キッコが たちどまって、いいました。
「ころがりほうだい」イワオは うれしそうに ころがりました。
「わたしも、ここがいいな。キッコさんと おしゃべりして、くらしたい」
イッテキは いいました。
「ゴッチは どう?」キッコが ききました。
「ここは ぼくの すきなところじゃ ないな 」
ゴッチは、うしろを むくと、走って いってしましました。
つぎの日から、キッコ イワオ イッテキ のふつうのくらしが はじまりました。
でも、いままでとは ぜんぜん ちがいます。
キッコは、ゴッチのことを かんがえました。
(じぶんの すきなところを みつけたかしら・・・)
「魔女の宅急便」の角野栄子さん、佐竹美保さんのコンビの絵本です。
モノクロの画風が「もりのなか」や「ちいさいおうち」を思い出させてくれました。
角野さんといえば、やっぱり、冒険です。でもこんな冒険は思いもつきません。
犬のゴッチの勇気は、みんなの冒険に繋がっていきました。
「家出」という言葉が、角野さんらしくもあります。犬の逃亡までは何となく予想がつきますが、根の生えたちいさな木が根っこを引き抜いて歩きだすなんて、ディズニーアニメを思い浮かべておもわず笑みがこぼれました。一番の驚きは、小さな沼の冒険です。
いったい、どうするんだろう…
佐竹さんの絵は、ちゃんと答えを出してくれました。なんて素敵な冒険!!
自然のかかわりを含めて、身近な現象の中に命の育みをも描いてくれました。
日々の暮らしの中で感じる不満や不安感、これからに向かう恐怖感など様々な想いにとらわれる私たち。
その私たちの背中を押してくれる犬のゴッチの背中です。
ゴッチのことを思うだけで、自分に向きあえるような気がします。
最後のページをじっと見ていたくなりました。
(赤鬼こと山ア祐美子)
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本当に暑い暑い夏でした。
まだまだ暑さのほてりは体に残っていますが、気が付けば、蝉たちの声が聴こえなくなって、あちこちに抜け殻が落ちていたり、その代わりに青々と伸びた稲の上をトンボたちが飛び回るのを見かけると、季節が変わってきているのだなって感じます。
吹く風が秋めいてくると、お日様が沈むのもあっという間です。こんな時の夕焼けはことのほか美しい・・・こんな歌が頭をよぎります。
「夕日がせなかをおしてくる」
夕日がせなかをおしてくる
まっかなうででおしてくる 歩くぼくらのうしろから でっかい声でよびかける
さよなら さよなら さよなら きみたち
ばんごはんがまってるぞ あしたの朝ねすごすな
夕日がせなかをおしてくる
そんなにおすなあわてるな ぐるりふりむき太陽に ぼくらも負けずにどなるんだ
さよなら さよなら さよなら 太陽
ばんごはんがまってるぞ あしたの朝ねすごすな
「おかあさんをさがすうた」
かけて かけて かえってきたのに おかあさん いないんだ
いやだなあ おかあさん
こんなにたくさん つくしんぼみつけて きたのにさ
はやく はやくと かえってきたのに おかあさん いないんだ
いやだなあ おかあさん
こんなにきちんと やくそくまもって いるのにな
なかも そとも やねもみたのに おかあさん いないんだ
でてきてよ おかあさん
かくれんぼだったら さがしてつかまえて やるのにさ
「コスモス」
秋のさくら コスモス
ちょうちょが まちがえて
こんどは なのはなを さがしました
ちょうちょう ちょうちょう
おいそぎなさい もう十月よ
阪田寛夫さんの詩の絵本です。
「サッちゃん」「おなかのへるうた」「ともだち賛歌(リパブリック賛歌)」「そうだ村の村長さん」等々、何度歌ったかわかりません。
教科書にもたくさん載っていました。
お伝えした「夕日がせなかをおしてくる」も載っていたと思います。
この絵本の中にも、ほかにきっと馴染みのある詩があるかと思います。
高畠純さんの絵は、阪田さんの詩を軽やかにほっこりとした表情に描かれていて、見ているだけで詩の世界がどんどん広がってきます。
阪田さんは、熱心なクリスチャンホームで育ちました。
そもそも、ご両親は教会で知り合われたそうです。
特に厳格なクリスチャンであられたお母様の生涯を描かれた「土の器」という作品もあります。
肩の骨を折りながらも礼拝のオルガンを弾きとおしたお母様の魂に触れた作品です。
芥川賞も受賞されています。お父様は聖歌隊のバスを務めておられ、阪田さんの音楽へ入り口だったと言われています。
宝塚歌劇も大好きだったそうで、なんと、あの大女優の「大浦みずき」さんは、阪田さんの娘さんだそうです。
そんな豊かな音楽に憧憬の深い阪田さんの詩による歌は、楽しくて人に寄り添う暖かい言葉の歌がおおいように思います。
思わず微笑みたくなる歌ばかりです。
「ぞうさん」で知られる詩人、まどみちおさんもクリスチャンでした。敬愛するまどさんの詩を阪田さんなりに考察した作品もあります。
詩人として、クリスチャンとしても、繋がるものや伝えたいことがあったに違いありません。
声に出して歌う事、忘れていませんか?
まずは、記憶のあるわらべうたや童謡、唱歌などから声に出して歌ってみませんか?
(赤鬼こと山ア祐美子)
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暑い暑い夏がやって来ました。異常気象と言われるほどの暑さが日々襲ってきます。
毎年夏の気温の上昇がより上がってきているような気がしてなりません。
海や山や、外に出かける楽しいはずの夏休みも、この強い陽ざしを避けて過ごすことも心掛けることになりそうです。
打ち水も一瞬のうちに熱湯のようになってしまいそうですが、何とか工夫して思い出深い夏にしたいものですね。
きっと、79年前の夏もこんな日常だったのでしょう。
1945年8月6日の広島を忘れないように、心に刻んで。
またあの日がやってきました。広島の空は晴れ上がり、暑い夏が始まろうとしています。
あの日の朝もたくさんのセミが鳴いていました。
1994年(平成6年)朝/広島市上空580m
セミは江戸時代浅野氏の城下町として栄えたころも、明治以後も、そして軍事の中心地として発展した1941年の夏にも、うるさいほどにきこえたものです。
1940年(昭和15年)朝/広島市上空
戦前の広島を知る人は、口をそろえたように、この町がきれいで、住みやすかったといいます。
雨の少ない温暖な土地柄でした。人びとの性格も、おおらかでのんびりしていました。
1940年(昭和15年)/新橋(平和大橋付近)
日中戦争が長引く中で、広島の町も戦争一色にぬりかえられていきました。
大勢の兵隊が、戦地へと出発していきました。
兵士たちは、どんな気持ちで歩いていたのでしょう。
1940年(昭和15年)/白神社
太平洋戦争が深刻化につれて、広島でも防空演習が行われるようになり、家ごとに防空壕がほられました。
しかし、防空演習も防空壕も、あの日には、何の役にも立ちませんでした。
1944年(昭和19年)/福島町本通り(己斐橋の東)
1994年の秋から、建物疎開が行われるようになり、大防火帯がつくられましたが、開戦以空襲をうけていませんでした。
この町だけは、だいじょうぶという、根拠のないうわさが市民のあいだでささやかれていました。
1945年(昭和20年)/新大橋(西平和大橋)の東
・マンハッタン計画 ・連鎖反応 ・ウラン爆弾とプルトニウム爆弾
・ヤルタ会談とポツダム宣言 ・目標都市 ・飛行 ・投下
広島の被爆者は、原爆のことをピカドンとよびます。
爆発の瞬間に目撃した閃光と、大音響とともにおそってきた爆風、こんな言葉であらわしたのです。
閃光は、爆心地に近い人はオレンジ色に、離れた人には青白く見えたといいます。
けたはずれの高熱と放射線をともなっていました。
1945年(昭和20年)8月6日午前8時16分/新大橋(西平和大橋)の東
エノラ・ゲイ号の乗員も、むらさき色の光を目撃しています。
「そのとき口の中で閃光の味がした。わたしは、たしかに閃光の味を味わったのだ。鉛のような味だった」後日、機長のティベッツは、そう語っています。
8月6日午前8時16分/広島市上空580m
閃光のあとに、猛烈な爆風がおそいかかり、あらゆるものをなぎたおしました。
木造の家は粉々に飛び散りました。人間もおなじことでした。
爆風が去ったあと、町のあちこちから火の手があがるにしたがって、あたりは地獄にかわっていったのです。
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市内各所の救護所は連日負傷者の群れでいっぱいでした。
息を引き取った人は、すぐに仮設の火葬場に運ばれます。
負傷者たちが生死の境をさまよっていたころ、長崎で2発目の原爆がさく裂し、新たな犠牲者が生まれていたのです。
8月9日/己斐国民学校(己斐小学校)
8月15日、日本は無条件降伏し、空襲のない暮らしが戻ってきました。
9月17日、枕崎台風が広島をおそいました。皮肉なことに、台風の豪雨が、焼けあとのごみやほこりをきれいに洗い流してくれました。
1945年(昭和20年)10月/横川駅
・熱線・爆風・放射線 ・40万の人びと・放射線障害・原爆症・人体実験とヒバクシャ
・原子力発電の副産物 ・抑止力と核軍縮 ・一人一人の声の力
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毎年、毎年、くり返し、わたしたちは、あの日のことをおもいだそうではありませんか。
たとえ被爆の体験がなくても、あの日、広島でおこったことを記憶して、絶対に忘れないことが、残されたもののつとめだと考えるからです。
8月/広島市上空580m
「かがくのほん」として、1995年3月に福音館書店から出版された絵本です。
この作品から、すでに29年が過ぎてしまいました。
そして、あの広島の日からは79年が過ぎました。
作者の名前を見て、どこかで見たかな?と思った方もおられるでしょう。
実は私もそうでした。文を書かれた那須正幹さんは、あの「ズッコケ3人組」シリーズでたくさんの読者を楽しませてくれた作家です。
那須さんは3歳の時、お母さんの背中でおんぶされていた時に被爆されたそうです。
膨大な資料と向き合い、原爆とは何かを、自分の生まれた町で起きたことを、科学、政治、国際社会、歴史、人々の暮らし等々、あらゆる視点から広島のこれからに向けて、記されました。
絵は西村繁男さん、楽しい絵本がたくさんあります。
那須さんのお気持ちを受けながら、丁寧な描写を駆使されています。
広島の町々で起きた現実を、鳥観図のように描かれました。
この絵本は記憶がありました。そうだ!と思い、地震後に自宅の書棚の「かがくのとも」の中を探しましたが、見つかりませんでした。でも、今回復刊されて、出会うことが出来ました。あの懐かしい輪島の「あさいち」が絵本の中から飛び出してきます。
原爆についての絵本も様々な作品がありますが、これほどまでに資料としての成熟度を持った絵本はないかと思います。
一度手に取って、絵で読んでみてください。
これを読みながら、絵本の言葉にあるように、これは昔話ではないことを実感します。
この悲しみ苦しみを伝えながらも、未だに終わらない戦争という愚かな人間の仕業が続いていることを思います。
何がそうさせるのでしょうか、残された私たちは、考え続けなければなりません。
思い起こせば、大学生の頃、朝市通りに行ったことがありました。あまりに愉しくて舞い上がってしまって・・・財布を落としてしまったのです。泣きそうになりながら、通りを行ったり来たりして、探し回りました。そんな記憶の中に、当時の朝市のじいちゃん、ばあちゃんたちが心配して、かけてくれた言葉が今も鮮やかに蘇ります。
今日も戦禍の中にある子どもたちに、一日でも早く「平和」を、との祈りをこめて。
(赤鬼こと山ア祐美子)
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