9月の声を聞くというのに、まだまだ異常な暑さの名残が続いています。
毎年の夏の話題は、年ごとに暑さが増すと記してきましたが、それが現実になってきているような気がします。
〜去年よりも暑いよね〜というのが、挨拶のように交わされていました。
四季が明確な日本のはずなのに、だんだんぼやけてきていませんか?
本来あるべき姿の地球を人の手で壊し続けているのかもしれません。
積乱雲の重なる空を見上げながら、鰯雲が恋しい気分になってきます。
秋の訪れを心待ちにしていると、月模様が思い浮かんできます。
月は、様々な場面の想いが込められて、絵本の中でも表現されています。
北方の海は、銀色に凍っていました。長い冬の間、太陽はめったにそこへは顔を見せなかったのです。なぜなら、太陽は、陰気なところは、好かなかったからでありました。
一ぴきの親あざらしが、氷山のいただきにうずくまって、ぼんやりとあたりを見まわしていました。そのあざらしは、やさしい心をもったあざらしでありました。秋のはじめに、姿の見えなくなった、自分のいとしい子供のことを忘れずに、毎日あたりを見まわしているのであります。子供を失ったあざらしは、なにを見ても悲しくてなりませんでした。
「どこかで、私のかわいい子供の姿をお見になりませんでしたか。」
いままで、傍若無人に吹いていた暴風は、こうあざらしに問いかけられると、叫びを止めて
「あざらしさん、あなたはいなくなった子供のことを思って、毎日そこにそうして、うずくまっていなさるのですか。・・・私はたいていこのあたりの海の上は、一通りくまなく駆けてみたのですが、あざらしの子供はみませんでした。・・・こんど、よく注意をして見てきてあげましょう。」
「あなたは、ごしんせつなかたです。・・・私の子供が、親を探して泣いていたら、どうか私に知らせてください。どんなところであろうと、氷の山を飛び越して迎えにゆきますから‥‥・。」
あざらしは、目に涙をためていいました。あざらしは、毎日、風の便りを待っていました。しかし、一度約束をしていった風は、いくら待ってももどってはこなかったのでした。
「あの風は、どうしたろう・・・。」・・・・・・・・
こうして、じっとしているうちに、あざらしはいつであったか、月が、自分の体を照らして、
「さびしいか?」
といってくれたことを思い出しました。そのとき、自分は、空を仰いで
「さびしくて、しかたがない!」
といって、月に訴えたのでした。月は、けっして、あざらしのことを忘れはしませんでした。・・・
「さびしいか?」
と、月はやさしくたずねました。
「さびしい!まだ、私の子供はわかりません。」
といって、月に訴えたのであります。
「私は、世の中のどんなところも、みないところはない。遠い国のおもしろい話をきかせようか?」
と月はあざらしにいいました。あざらしは頭を振って
「どうか、私の子供がどこにいるか、教えてください。世界じゅうのことがわかるなら、ほかのことは聞きたくありませんが、私の子供は、今どこにどうしているのか教えてください。」
月に向かって頼みました。月は、この言葉をきくと黙ってしまいました。何と答えていいかわからなかったからです。それほど、世の中には、あざらしばかりでなく、子供をなくしたり、さらわれたり、殺されたり、そのような悲しい事件が、そこここにあって、一つ一つおぼえてはいられなかったからでした。
「おまえは、子供にやさしいから、一倍悲しんでいるのだ。私は、おまえをかわいそうにおもっている。そのうちに、お前をたのしませるものをもってこよう・・・・。」
月は、約束を決して忘れませんでした。ある晩方、南の方の野原で、若い男や女が咲き乱れた花の中で、笛を吹き、太鼓を鳴らして踊っていました。一日のらに出て働いて、月の下でこうして踊り、その日の疲れを忘れるのでありました。月は太鼓が草原の上に投げ出されたのを見て、これをあざらしに持って行ってやろうと思ったのです。月は太鼓をしょって、北の方へ旅をしました。
「さあ、約束のものを持ってきた」
といって、月は太鼓をあざらしにわたしてやりました。あざらしは太鼓がきにいったとみえて、月があたりを照らしたときには、あざらしの鳴らす太鼓の音が、波の間からきこえました。
絵本の表紙を見ただけで、一気に体が冷えてきそうになりました。
「赤い蝋燭と人魚」と言えば、誰もが一度は耳にしたことがあるでしょう。
日本を代表する作家、小川未明の作品です。
様々な月の絵本を探しながら、この作品にたどり着きました。
ここでは、かなり省略して伝えてあります。
ぜひ、手に取ってじっくりと読んでいただきたい作品です。
小川未明の選ぶ言葉の深いところに、魂を揺さぶられる場面が見つかります。
あざらし、月、風、太陽、擬人化された関係が、自然現象の中で生き生きと描かれています。
子を思うあざらしの想いがひしひしと、伝わります。
あざらしとの約束を守り切れなかったのか、守るつもりもなかったのか、風は、あざらしへの思いを持ちながらも通り過ぎていきます。
それに引き換え、月は柔らかく、清々しく、温かく、あざらしを見守り続けます。
今もこんな風に、世界中を見ているのかもしれない、そう思うと、空を仰いで月に願いをかけたくなります。
このあざらしの子供だけでなく、世界中に奪われていく幼い生命のなんと多い現代社会なのかと・・・。
冒頭に、「太陽は陰気なところは好かない・・・」とありました。
上越出身の小川未明にとっては、太陽はそんな存在なのかもしれないと、ちょっと愉快になりました。
月がもたらした太鼓を鳴らすことで寂しさ、悲しさから解き放たれた瞬間があざらしの救いになった、こういう救いは、太鼓でなくとも、誰でも経験があるかもしれません。
巻末に絵を描かれた「古志野実」についての解説があります。
元々はアニメーションであったものを絵本にされたとのこと、力強いタッチが作品全体を覆っています。
今年の十五夜は10月6日だそうです。
ちょっと先走ってしまいましたが、お月見までに、月の絵本に出会ってみるのもいいですね。
(赤鬼こと山ア祐美子)
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今年の夏も暑くなりそうです。
沖縄は、日本で一番最初に暑さが伝わる地域です、梅雨明けも早いですね。
その沖縄は今や世界中に知られた一大リゾート地として、多くの観光客が訪れます。
輝く太陽、青く澄んだ海、南国特有の花々は、訪れた人々の気持ちをウキウキさせてくれます。
でも、そんな沖縄には、語り続けていかねばならない大切なことがあります。
今年で、第二次世界大戦から80年が過ぎました。
沖縄は、米軍が足を踏み入れた地上戦があった場所です。
どんなことがあったのか、知っておくことから始めてみませんか?
ざわわ ざわわ ざわわ
広いサトウキビ畑は
ざわわ ざわわ ざわわ
風が通りぬけるだけ
今日もみわたすかぎりに
緑の波がうねる
夏の陽ざしの中で
ざわわ ざわわ ざわわ
広いサトウキビ畑は
ざわわ ざわわ ざわわ
風が通りぬけるだけ
むかし海の向こうから
いくさがやってきた
夏の陽ざしの中で
ざわわ ざわわ ざわわ
広いサトウキビ畑は
ざわわ ざわわ ざわわ
風が通りぬけるだけ
あの日鉄の雨にうたれ
父は死んでいった
夏の陽ざしの中で
ざわわ ざわわ ざわわ
忘れられない悲しみが
ざわわ ざわわ ざわわ
波のように押し寄せる
風よ悲しみの歌を
海に返してほしい
夏の陽ざしの中で
ざわわ ざわわ ざわわ
風に涙はかわいても
ざわわ ざわわ ざわわ
この悲しみは消えない
皆さんも一度は耳にしたことがあるでしょう。
森山良子さんが歌う「サトウキビ畑」の絵本です。
葉祥明さんの絵が、ほんとに美しく、悲しく、温かく、ページをめくるたび、風が吹いてくるような気がします。
歌詞の言葉一つ一つの意味合いが表現されています。
この歌詞は11連まである長い歌です。
全部歌うと10分以上になるそうなので、TVなどでは、カットして歌われますが、森山さんのコンサートなどでは、全ての歌詞を歌われるそうです。
この歌についてのエピソードを、森山さんが語られるのを聞いたことがあります。
「サトウキビ畑」は、作詞作曲した寺島尚彦さんが、デビュー間もない19〜20歳の森山さんに歌ってほしいと贈った曲。
でも、当時の森山さんは、戦争も知らない私が、戦争の歌は歌えないと・・・30年間歌っていなかったそうです。
それが、ちょうど湾岸戦争で自衛隊派遣が世論を騒がせていたころ、森山さんのお母様が「恋だの愛だの、軽いラヴソングばかり歌って、ちゃんちゃらおかしい、あなたにはもっと歌うべき歌があるのでしょ」と叱咤したのだそうです。
そのお母様の叱咤を受けて、あらためて「サトウキビ畑」と向き合うことになったとのこと。
「ずいぶん時間かかっちゃったけれど、年月を経て、いろんな経験をしたからこそ、歌えるようになったのよ」と。
この絵本の末尾に葉祥明さんの「あとがき」の言葉があります。
戦争は、もう終わりましたか?
それとも、まだ続いていますか?
いくさは、また起ころうとしているのでしょうか?
それとも、もう始まっているのでしょうか?
さとうきび畑は、私たちにそう語りかけているようです。
ざわわ、ざわわ、ざわわ・・・・・という、
さとうきび畑を吹き抜ける風の音。
そして、遠くの波の音が、私たち人間の
荒ぶる心、傷ついた心、悲しみの心をやさしく癒してくれているようです。
この一曲の美しい歌が、戦争を阻止する力強い心の砦となることを願って・・・
葉 祥明
(赤鬼こと山ア祐美子)
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だんだん雲行きが怪しくなってくる6月ですが、山々の木々も足元の花々も、太陽の日差しとともに、水が無ければ輝きを増すことはできません。だからこの時期を待っています。
私たちは喉がかわけば、水を飲みます。植物も同じです。大きな畑も小さな畑も、水やりは大事な作業です。そのあらゆる水分の源は雨水です。今地球は温暖化が加速しています。
ますますヒートアップ・・・でも、そうさせているのは人間の仕業です。だから、私たち人間が知恵を集めなければ、地球は壊れ続けていきます。
自分の土地だけではなく、相手の土地も守らなくては、地球全体を救うことにならないのです。
愚かにも相手の土地を奪っても、そもそも人間が、生きていくことができない土地になってしまうかもしれません。
「おとうさん、おはなしして」
「どんな おはなし?」
「ぺこぺこしたやつ」
「むかし むかし あるところに、おうさまがいた。
そのおうさまは ちっとも いばらなかった。
まいにちおきると、おきさきさまに ぺこぺこ けらいに ぺこぺこ、 にわのくじゃくに ぺこぺこ。あるひ ごはんをたべていた。
おうさまは ぺこぺことコックに おじぎをした。
おさらのうえの おさかなに ぺこりと あたまをさげて <いただかせいていただきます>と さかなを たべはじめた。
だいじんが どたどた はいってきた。
<たいへんだ、たいへんだ、これをみろ。めしくってるばあいじゃないぞ>と いっつうの てがみをもってきた。
<いますぐ せんそうをする。せんそうをして、おまえのくにを わしのものにするぞ、えっへん>と、かいてあった。
おうさまは あわてずさわがず、さかなをきれいにたべると ぺこぺこと さかなのほねにむかって あたまをさげた。
だいじんは、そのあいだに たいちょうをよびつけ、<せんとうじゅんび はじめ>とどなった。
おうさまは ゆっくりと おしろのとうのうえにのぼって、ぼうえんきょうで とおくを ながめた。
とおくから いさましく となりのくにの ぐんたいがやってきた。
おうさまは たいちょうにむかって
<いつものように ぺこぺこたたかうのだ>とさけんだ。
<ぺこぺこ!ぺこぺこ!わかったか ぺこぺこだ> たいちょうは さけんだ。
<おう>とへいたいは いさましくこたえた。
となりのくにのぐんたいは しろをとりかこみ たいほうとてっぽうを うってきた。
こちらの たいほうのたまは、いきおいよく ぶっとぶと てきのまえで ぺこりと おっこちる。
へいたいは ぺこりぺこりと あたまをさげて、ぺこんとじめんにはいつくばる。
となりのくにのたいほうは どかんどかんと うちあがったが、おしろも ぺこりとおじぎをするので あたらない。
となりのぐんたいは すっかり たまを つかいはたしてしまった。
おうさまは、となりのおうさまのまえにゆくと、ぺこりと あたまをさげて
<ごくろうさんでした。おつかれでしたね。わたしたちも つかれました。しょくじを いっしょにしましょう>と いった。
となりのおうさまは <えへん ごちそうになってやろう>と おしろに はいってきた。
そして、いばっていった。<われわれのへいたいは、ひとりもけがにんが でなかった。わがくには せんそうが せかいいちうまいのだ>
おうさまは ぺこりとあたまをさげて <ほんとうに よかった>としずかにいった。
おきさきさまは、おうさまのくびにかじりついて<あなたって、すてき、ふんだ>といって、キスをしたのさ。」。
「それから?」
「おうさまも おしろの にわで、コーラのカンで、カンけりをしてあそんだ。おしまい。」
「ふんだ、おとうさん、ほんとに カンけりのカンが ぺこぺこしたはなしだったね」
「100万回生きたねこ」の佐野洋子さんの絵本です。
1993年に文化出版局から発売になっていた作品の復刻版です。
原画を新たにスキャンして色鮮やかな一冊になりました。
実は、佐野さんは、山梨とも関連があります。
北京で生まれ、幼少時を過ごした佐野さんが、敗戦後、引き揚げたのが山梨でした。
その間に、兄弟を亡くされて、ことに大好きだった兄の死は、作品にも影を落としています。
「わたしのぼうし」は、そのお兄さんへの想いが詰まった絵本です。
2010年に亡くなられた佐野さん、2024年に復刻されたこの「ぺこぺこ」の再登場をきっと喜ばれているに違いないと思っています。
今年2025年は第二次世界大戦から80年。
まさか再び戦争の日々が起こるなど想像もしてなかった世界は、土地を奪い合い、命を奪い合う殺し合いを許してしまっています。
どうしたら、子どもらの命が奪われずに、世界に平和が訪れるのか、日々思い、願い、祈るばかりです。
人間の愚かさと、無力さばかりが、世界中を覆いつくしています。
ユーモアは、人の世界を豊かに、心を軽くしてくれます。
「ぺこぺこ」にはいろんな言葉の意味がふくまれていますよね、お辞儀のぺこぺこ、缶が蹴られてぺこぺこ、踏まれてぺこぺこ、お腹が空いてぺこぺこ、考え続けていくと、なんだか楽しくなってしまいます。
願わくは、こんなおうさまばかりなら、みんながぺこぺこで、みんなでぺこぺこして、みんなと缶蹴りで決着がついて、おかしくて、わらって、平和な世界になるかもしれません。
(赤鬼こと山ア祐美子)
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