学校法人
認定こども園 聖愛幼稚園

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Last Update: 18/08/13

赤鬼からの手紙・・・1978年から1981年までのたった3年間、甲府の中心地に児童書専門店『赤鬼』と いう小さな本屋さんがありました。当時は希少な絵本中心の児童書専門ということで、地元山梨のみならず 全国にファンが広がっていた素敵な本屋さんでした。その後、一男二女の母となった赤鬼は子育ての大事業を 志し、後に東京都練馬区教育委員会の教育委員を務める等、常に母親の立場から目覚ましい活躍をしてきました。 今も文部科学省委託事業『新教育システム開発プログラム』作成に参画して日本国中を東奔西走しています。 赤鬼と小学校以来の幼馴染の私は、3年ほど前から故郷山梨の子どもたちのために絵本の紹介を 書いてくれるようお願いしてきました。やっとこの2007年5月から毎月お手紙をもらえることになりました。 赤鬼おススメの絵本は、聖愛幼稚園の子育て支援センター『あんぱんくらぶ』の本棚でいつでもご覧いただけます。 なんたって『赤鬼からの手紙』です。どうぞ、お楽しみに。(園長 鈴木)




赤鬼からの手紙(2018年8月号)



『おとなになれなかった弟たちに』

米倉斉加年 著

偕成社


   今年の暑さは日本中の多くの場所で記録的なものになっています。 連日のようにTVニュースの画面では、命が危ぶまれる暑さであると報じられ、熱中症で亡くなる方も増え続けています。 未曽有の水害に見舞われた地域でも、この酷暑が復興の手を阻んでいます。 知恵を絞り、手を取り合って声かけながら凌いでいくことが大切だと、、、一人で出歩かないようにとも言われています。 手を伸ばせば、近場にいる人を助けることが出来るのは、人として感謝できることでもありますね。 手を伸ばしても何もできない時代もありました。 たった一人の幼い弟を助けることが出来なかった哀しいお話です。

 ぼくの弟の名前は、ヒロユキといいます。ぼくが小学校4年生のときに生まれました。 太平洋戦争のまっさいちゅう、父は戦争にいっていました。B29という飛行機が、毎晩のように日本に爆弾をおとしにきます。夜もおちおちねていられません。ぼくと母と祖母と妹と弟の家族5人、じぶんたちでほった地下室、防空ごうでねていました。
 そのころは食べ物が十分なかったので、母はぼくたちに食べさせて、じぶんはあまり食べません、だからおチチが出なくなりました。ヒロユキの食べるものがありません。ときどきミルク一缶の配給がありました。それがヒロユキのたいせつな食べ物でした・・・。 あまいものがなかったそのころ、アメもチョコレートも、おかしもなにもありません。くいしんぼうのぼくは、弟のミルクはよだれがでるほど飲みたいものでした。母はよくいいました。ミルクはヒロユキのごはんだから、それしか食べられないのだから―――と。でもぼくはかくれて、ミルクをぬすみ飲みしていました。それも、何回も・・・。ぼくは弟がかわいくてしかたがなかったのですが・・・。それなのに飲んでしまいました。
 空襲がひどくなり、疎開の相談をするために、弟をおぶった母とぼくはしんせきのいるいなかへ出かけましたが、しんせきの人はぼくたちを見るなり、うちにたべものはないといいました。母はくるりとうしろをむいて、ぼくにかえろう、といいました。そのときの母の顔は強く、悲しい顔でした。ぼくたち子どもを必死で守ってくれる母の顔は美しいです。ぼくはあのときのことをおもうと、いつも胸がいっぱいになります。
 母はいったこともない山のなかの親切な人にたのんで、やっと疎開先がきまりました。ぼくたちがおせわになる農家は、山が頭の上においかぶさるような山すそにありました。母は生まれてはじめて田植えを手伝い、昼に出されるごはんをぼくたちにのこして、もって帰ってきました。疎開者には配給もないので、ヒロユキのおチチにはこまりました。となり村に山羊をかっている農家があるときけば、母は自分の着物をもってでかけていきました。ぼくはおとうとが欲しかったので、よくおんぶしてかわいがりました。 ヒロユキは病気になりました。村から三里はなれた町の病院に入院しました。10日間くらい入院したでしょうか。ヒロユキは死にました。病名はありません。栄養失調です‥‥・。
 弟が死んで九日後の8月6日に、ヒロシマに原子爆弾がおとされました。その三日後にナガサキに――――。そして、六日たった1945年8月15日に戦争はおわりました。 ぼくはひもじかったことと、弟の死は一生わすれません。

   「死んだヒロユキばかりではない。罪も無い乳児を栄養失調で死なせなければならなかった周囲の大人達も不幸である。 自分の子に何もできず顔すら見ることができなかった父も不幸である。 作者一家の顔をみるなり追い返さなければならなかった親戚も不幸である。 弟のミルクを奪った作者も不幸である。 なによりも自分の長男が次男の唯一の食料を取ることを咎めることが出来なかった母はもっとも不幸である。 弱い子供が被害者であるとともに、より弱い者に対しては加害者になってしまう。 被害者を、同時により弱い者への加害者にもしてしまったものはいったいなんであるか? ヒロユキのミルクを主人公が盗み飲みすることを母は何故?きつく咎めることが出来なかったのか? 教科書の指導書は生徒の指導に当たって問いかけるよう求めている。」

   またある対談ではこんなことを語っています。

「ぼくも自分の弟が、オレがミルクを飲んだために死んだという恨みつらみがあるんですよ。子どもには小さな缶が一つ配給されるだけだもの、食べ盛りのぼくは盗み飲みするわけですよ。もし、ぼくがあれを飲まなければ生きていたんじゃないかという、この恨みは激しいんだ。誰が殺した。ぼくが殺した。じゃそういう状況に追い込んだのはいったい何なんだ・・・・」

   米倉さんの挿絵は独特の世界観を持っています。「多毛留」という絵本は衝撃的なデビューでした。描かれた繊細な線の中に、おどろおどろしいような刹那さがありました。今回の作品は、その線がやわらかく美しく、時に凛としながらも、表紙の赤子の愛らしさは家族の愛情にあふれています。そして、見開きの哺乳瓶を打ち抜いた弾丸のあとはその現実の厳しさを確かに伝えています。弟の名を”ヒロユキ”と明記したのも、ヒロシマ、ナガサキの表記と同じくすることで、普遍的なものにするためであると・・・。

   今年の8月は絵本と共に、親子で平和を考える時を持ってみませんか?

(赤鬼こと山ア祐美子)

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赤鬼からの手紙(2018年7月号)



『ハワイ島のボンダンス』

いわねあい ぶん
おおともやすお え

福音館書店


   7月の声を聞くと、なんだかワクワクしてきますね。 そろそろ入道雲が立ち上り、ひまわりもすくすく伸びて大きな花を咲かせそうです。 皆さんが楽しみにしている夏休も、もうすぐです。 夏には、夏にしかできない行事もたくさんあります。 その一つに夏祭りがあります。祭りには、どんなことがあるでしょうか、提灯を飾ったり、打ち上げ花火を見たり、浴衣を着て並んだ出店を歩くのも楽しいです。 ”盆踊り”も祭りにはなくてはならないものです。 ”盆踊り”は日本の伝統的な祭りの踊りですが、こんなに遠く離れたところでも踊られているそうです。 それ一体どこなんでしょうか・・・

「なつやすみに とうさんは おばあちゃんと ハワイに いくんだけど、いっしょにきて、てつだってくれるかい? おばあちゃんは くるまいすで いどうするから てつだいが いるんだ」
「わかった、ぼく てつだうよ!」
おばあちゃんは たったひとりになってしまった きょうだいのみちこねえさんに あいにいくのだ。 3にんは みちこさんが すんでいる ハワイ島のヒロくうこうへ むかった。 くうこうでは おねえさんのみちこさんと みちこさんのかぞくが むかえてくれた。
「ちょうど いいときに きたね。 もうすぐ ボンダンスが あるよ!」
「えっ?ボンダンスって なんだろう?」

みちこさんの いえは おばちゃんの くまもとのいえに にていた。 まわりのかべには むかしの しゃしんが いくつもかざってある。 みちこさんは ふるいアルバムを まさるに みせながら はなしてくれた。 100ねんいじょうもまえから、たくさんのにほんのひとが ハワイにきたこと。 サトウキビばたけで いっしょうけんめいはたらいて おかねをかせいで にほんのかぞくにおくったこと。 みちこさんのだんなさんの おとうさんとおかあさんは くまもとからきて みちこさんは そのだんなさんのおよめさんになるために ハワイにきたこと。 そのときのハワイでのくらしのたいへんだったことなどを おしえてくれた。 オベル、ラウラウ、ポイ、シーウィード、ポケ、リリコイ、ハワイのりょうりはめずらしいものばかり、それのどれもこれも みちこさんのはたけでとれたものだ。
「たべたいものも のみたいものも みんな じぶんで つくるんよ!」
よぞらには かぞえきれないほどの ほしがかがやいている。
「あのオレンジいろの ほしがアルクトゥルス。ハワイごで、ホクレア。『きぼうのほし』といういみ。ハワイのひとにとって とくべつな ほしなの」
よくあさ、まさるはマカデミアナッツをひろいにいった。 あさごはんのあと、しまのあちこちにあんないしてもらった。 キラウエアかざんの かこうからは けむりがもくもくたっている。 ハワイのしまは ふんかしたようがんが かたまって できたそうだ。 それから、みんなでスーパーで たくさんのかいものをした。
「こんなにたくさんかって どうするの?」ときくと、みちこさんは
「おてらにもっていくんだよ。ボンダンスのごちそうをつくるからね。」
「えっ?ハワイに おてらがあるの?」
「100ねんいじょうまえに たてられた おてらだよ。
 ジャパンから さいしょにきたひとたちが じぶんたちで おてらをたてたんだよ」 みんなにおしえてもらいながら、まさるもいっしょにごちそうの じゅんびをした。 おばあちゃんは おてらの てぬぐいで ハッピをつくってくれた。
「うわー、かっこいい!」 「まさる、ボンダンスの れんしゅうだ」
「ボンダンスって、ぼんおどりのことだったんだ」
まさるは すみっこにいた おばあちゃんのくるまいすをおして、「レッツゴー!」 おばあちゃんも とうさんも ボンダンスの わに くわわった。


   1868年153人の日本人が強制的にハワイに送り込まれました。彼らは移民の元年者と呼ばれています。今年は、それから150年を数える記念の年となっています。

   1848年、ハワイ王朝からハワイに土地の所有を認められたヨーロッパの資産家たちは、サトウキビ栽培に投資をかけ、多くの農場を作りましたが、地元の人だけでは維持ができず、移民を求めました。初めは中国人でしたが、彼らは定着せず、次に目をつけられたのが日本人であったという歴史があります。元年者の苦労は並大抵のものではありませんでしたが、勤勉で努力家の日本人はハワイに定着して多くのサトウキビ畑を開拓していったのです。その日本人の気持ちのよりどころとして、最初に建てられたお寺がこの絵本の中にあるハマクワ寺院です。

   実は、私がお世話になっている目黒蟠龍寺スタジオの吉田哲さんの祖父、吉田良雄(りょうゆう)さんはハマクワ寺院の日本人宣教師でした。そして、吉田さんの父、吉田哲雄(てつゆう)さんはハワイで生まれたのだそうです。哲雄さんは、曼荼羅研究家としても著名な方です。この絵本も巡り巡って、蟠龍寺に送られてきたと聞きました。

   今の私たちにとって、ハワイはレジャーや観光地のメッカとして、楽しまれる場所であり、またハワイアン音楽やフラダンスも、今や、日本人にはなくてはならないような存在にまでなりました。年間の旅行者や移住者も増加傾向にあるようです。でも、そのハワイは、日本人移民2世3世、そして4世にまでつながり、多くの街をつくってきているのです。元年者のご苦労に加えて、戦時下においてアメリカと日本との間で揺れた多くの方々のご苦労も忘れてはなりません。そんな中でもこうして、失われつつあった日本の伝統ある「盆踊り」を日本のそれぞれの地域からの移民の方々の努力によって復活し、繋がれてきたことは私たちにとっても有難く嬉しい気持ちがします。

   今年の夏まつりは、大人も子供もおじいちゃんもおばあちゃんも「盆踊り」しましょう!

(赤鬼こと山ア祐美子)


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赤鬼からの手紙(2018年6月号)



『だむの おじさんたち』

加古里子 さく・え

ブッキング


   今年の梅雨いりは、いつごろになるでしょうか。南の地方では、すでに雨の季節になっているかもしれませんね。四季折々の中でも、この梅雨の季節は少しうっとおしくも感じますが、自然界にとっては、成長を助ける大事な命の水です。ところが時として、多すぎる雨に見舞われることがあります。まるで津波の様に、道路にも水があふれたり、山が崩れて土砂となり、家も人の命までも飲み込んでしまうことがあります。このように水の力はとても大きいのです。この水の力を利用した施設がダムです。私たちの周りにはたくさんのダムがあります。そのダムがどうやって作られたかを、このおじさんたちに聞いてみましょう。

やまおくの たにがわを、おじさんたちがのぼっていきます。
「なんだ、なにしてるんだ?」やまのけものやとりたちが、しんぱいそうにみています。
そのおじさんたちは、はつでんしょをつくるためにしらべていたのです。かわのみずをせきとめて、だむをつくることになりました。

だんぷとらっく、ぶるとーざー、ぱわーしょべる、こんくりーとみきさーしゃ、くれーんとらっく、いろんなくるまがやってきます。ひやけしたおじさん、はちまきのおにいさん、がっしりしたおじさん、せいたかのっぽのおにいさん、たくさんのひとがきて、いよいよこうじがはじまりました。おひるやすみには、たくわんをかじるおじさん、ひるねをするおじさん、はーもにかをふいているおにいさん、てがみをかいているおにいさんもいます。こうじは よるもひるも、こうたいでつづきます。
「おつかれさん」「あと、たのんます」「ごくろうさん」
やまのけものが ねているあいだもよなかも おじさんたちは ねむらない。おきています。うごいています。はたらいています。
だだだだだだ がらがらがら ういんういん こんくりーとがつぎからつぎへとはこばれてきます。ぴぴいー ぴいっ ふえとてで あいずしながら おじさんたちはすこしずつ だむをつくっていきます。こうじは なんねんも なつもふゆもつづきます。「おーい、えらくふってきたぞ」「すべって おちたら いのちがないぞ」おじさんたちのことばはらんぼうでこわいです。
「くにのおっかさん、なかせないように きをつけろ」―――でも、やさしいです。ゆきにもかぜにも、ふぶきにも、あらしにも、はたらくおじさんたちは まけません。

とうとう、だむができました。おじさんは、じっとだむをみています。おじさんはわらっています。ばんざーい、だむのおじさんたち!


   2018年5月2日 加古里子さんが天に召されてしまいました。この場でも加古さんの絵本を紹介してきました。本当に残念でなりません。今回は膨大な加古さんの絵本の中から、記念すべきデビュー作品をご紹介します。

   「だむのおじさんたち」は1959年「こどものとも」で発表されました。絶版になってから、2007年に復刊されました。再刊に向けての加古さんからのメッセージです。
「この絵本は、工場の研究所勤務の昭和30年代、休日は工員住宅の中の子ども舎の世話をしていた私が、福音館書店編集長の松居さんの依頼ではじめて描いた作品。時代にふさわしいものという大きなテーマなので、停電が頻発する当時ゆえ、水力発電のダム建設を題材とした。半世紀を経て、絶版だった本書が再刊されるに当り、種々の感慨と共に、この安定完成された水力発電の建設技術が、再び政治とカネに乱されぬよう希求している所である。」


   加古さんの工学博士、技術士という肩書や、研究所勤務という経験から、多くの取材を経てダムがどのように作られ、人々に役立つものかを伝えてくれました。絵本の中身は、そんなお堅い感じとは全く違っていて、どのページも細やかな加古さんの絵が踊っています。働く車たちの動きが細密に描かれ、工事には動物たちも参加しています。生き生きと楽しそうに手伝う動物たちが微笑ましくて、おもわずにっこりしてしまいます。一方おじさんやお兄さんたちの働く姿、昼休みの様子まで伝わってきて、当時の雰囲気が目に浮かんできます。最後のページのおじさんの表情でダム完成の苦労と喜びが湧き上がります。そして、だむのおじさんたちへの加古さんの愛情と温かな敬意が溢れています。

   復刊絵本への思いを語る最後に、加古さんはこう結びました。2007年のことです。
「原子力発電の絵本は何度もオファーをいただいたが、納得できる数字の根拠を用意してもらえなかったので、全て断りました。」

   子どもの日を前に天に昇られた加古さん、 雲の上のかみなりちゃんには、もう会えましたか?

(赤鬼こと山ア祐美子)


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