神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。
「豚に真珠」という言葉は、価値の分からない人に貴重なものを与えてもムダだというようなときに使われます。しかし、イエスさまは、もっと違うことをおっしゃりたかったのだと思います。
価値のあるものを、価値のないものかのように扱ってはいけない、ということを言いたかったのです。「あなたたちは、貴重なものを犬にやったりしないだろう?真珠を豚に向かって放り投げたりしないだろう?あなたたちは、何が大切かわかっているではないか。それなのに、なぜ、価値のある一人ひとりの存在を、平気で価値のないもののようにあつかうのか。」と言っているのです。相手の存在や、人の命を尊重しない傲慢で利己的な人たちへの怒りがにじみ出ている言葉なのです。
無条件で価値のあるものは、人のいのちです。しかし、私たちは、自分にとって価値のあるものを最優先し始めると、本当に価値のあるものを投げ捨てるような恐ろしいことができてしまうのです。誰もがそういう可能性を持っているのです。お金や財産や権力に最大の価値を見いだしてしまった人は、本当に他者の存在を軽視するようなことになるのです。
私たちは、そんな極悪人にはなれないでしょうが、うっかりすると、尊重しなければいけない相手の存在を軽く考えてしまうことはあるのです。話を盛って人のうわさを流したり、必要以上にキツイ言葉を選んで相手を責めたり、自分の立場を有利にするために人を悪く言ったり、そういういことは、相手に対する尊敬、相手の命の尊厳を認める謙虚さを忘れたとたんに起きるのです。
弱い立場の子どもの存在を、軽視してしまっていることがないか振り返ってみましょう。
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自分の命のことで、何を食べようか何を飲もうかと、
また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。
命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。
・・・何よりものまず、神の国と神の義を求めなさい。
そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。
だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。
その日の苦労は、その日だけで十分である。
「空の鳥や野の花をちゃんと養ってくださる神さまは、あなたたちのことを忘れていない」と語る
イエスさまの言葉の、最初と最後の部分です。
健康のために何を食べるか、季節に合わせて何を着るか、
ということに私たちは日々気を使っています。
そんな贅沢な悩みではなく、食べる物がなければ飢え死にする、
着る物がなければ寒さをしのげない、という状況に置かれている人もいます。
いずれにしても、衣食住のこと、それを維持するための経済のことで私たちの頭は一杯になってしまっています。
この先どうしていったらいいかと悩み、不安を抱える人もいます。
生活の維持に関心が集中すると、この命を与えてくださった神さまのことを忘れてしまいます。
生かされていることへの感謝を忘れてしまうのです。
だから、「神の国と神の義を求めなさい」とおっしゃるのです。
私がうまく生きていくためにどうすればいいかということだけを考えるのではなくて、命を与えてくださった神さまのお望みが実現するように願い求めなさいと言っているのです。
神さまのお望みは「すべてのものの幸せ」です。
「私の幸せ」だけを追求するあまり、この世界の向かうべき道を忘れてしまわないようにという警告でもあります。
「思い悩むな」というのは、「なるようになる」という無責任の勧めではなく、何事も自分で抱え込まないで、もっと神さまにお任せしましょうということです。
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だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。
富んでいること、豊かであることこそ幸せだと私たちは思っています。
豊かな暮らしができることこそ幸せだと思い込んでいるのです。
そしていい暮らしにあこがれ、そのために様々な努力もします。
生活水準を気にしたり、損得でものごとを考える癖もあります。
すべてを経済価値に置き換えて見てしまうのです。
いつの間にかお金に縛られて生きているので、どんなこともお金に換算して考えるようになってしまっているのです。
ちょっと得したら、そこに喜びはあるかもしれませんが、しかし、それは幸せとは違うものだということを心のどこかで私たちは知っているのです。
子どもが小さな紙切れに書いてくれた手紙は、高価なものではありませんが、とてもうれしい大切なものです。
子どもと手を繋いで風に吹かれて散歩しても、一銭にもなりませんが、大切な何かを感じ取れる時間です。
「富」とは無縁の、むしろ対極にあるようなところに、幸せが用意されていることを本当は私たちはちゃんと知っているのです。
でも、豊かな生活の先に幸せがあると思わされているので、お金に換算できないようなものには心が動かなくなってしまうのです。
この世の金銭的な富に換算できない、むしろ場合によっては損でしかないようなところにこそ本当の幸せは潜んでいるのだとイエスさまはおっしゃるのです。
「神」とは、私たちが損得勘定抜きであたりを見回したとき見えて来るものです。
子どもの寝顔や、四季の移ろいや、昇る朝日や、夜空に浮かぶ月。
ちょっとだけ「富」から離れて、「神」を味わってみましょう。
「富」に心を奪われて、本当の幸せ見失ってしまわないように。
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