学校法人
認定こども園 聖愛幼稚園

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Last Update: 18/06/14

聖書のお話・・・カトリック甲府教会司祭の細井保路先生が 新たに「聖書のおはなし」を連載してくださいます。細井先生は カトリック教会の保育所、幼稚園でたくさんの子どもたちに 関わってこられ、絵本作家としてもご活躍されています。



書き下ろし連載128
見守りながら
ルカ福音書5章4−11節

細井保路

   イエスはシモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。そして漁師たちがその通りにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。・・・イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。

   このエピソードには、そういうシモンのすばらしい資質がよく表れているのですが、同時に、教育者としてのイエスさまの魅力も描かれています。自分の小ささを思い知らされているシモンに、追い打ちをかけるような言葉はひと言もおっしゃらず、むしろ、「網で魚を集める経験は積んできているのだから、今度は、私と一緒に神さまのもとへ人を集めることをしてみないか」と誘うのです。限界を思い知らせるのではなくて、次のステージへ引き上げるのです。

   私たちは、自分に見えないもの、理解できないものを存在しないかのように無視して生きています。つまり、自然界の大部分を無視して生きているのです。しかし、実は私たちはその自然界の一部であり、太古の昔から、進化の過程の遠い記憶までも包み込んだ、この世界の構成要素のひとつなのです。たとえば、普段の生活でバクテリアのお世話になっているのだけれど、見えないのでほとんど意識さえしません。そういうことに気づいたなら謙虚にならずにはいられません。春を迎える自然界の様々な営みに目を向けてみましょう。私たちのちっぽけな理屈や感情や思惑などではとても太刀打ちできない命の輝きを目の当たりにすることができます。私たちは、私たちの文化に縛られ、自然界の豊かさのほんの一部を見ているに過ぎないのです。

   私たちも、子どもたちが、成長に合わせて一つずつ力をつけていく姿をそばで見守りながら、次のステップへの筋道をつけるときには、ちょっと応援してあげましょう。それだけで子どもたちは内に秘めた力を発揮していくことができるのです。


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書き下ろし連載127
遣わされた者
ルカ福音書4章16−21節

細井保路

   イエスに預言者イザヤの書が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。「・・・主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」・・・イエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。

   イエスさまがご自分の育った村に立ち寄られ、礼拝に参加されたときの出来事です。預言書の巻物の一節を読まれたイエスさまは、ここに書かれていることは、いつ実現するかわからないようなことではなく、お互いの救いを願うならば、すでにその第一歩は始まっている、とおっしゃったのです。

   人の幸せを本気で願うならば、私たちは、小さなことかもしれないけれど、必ず何かの行動を起こします。また、自分を変えようと本気で考えるならば、出来ることから何か始めるはずです。誰かが状況を変えてくれるのを漫然と待っているだけでは、状況は変わりません。その代わり、ほんの少しでも、自分の問題としてとらえることが出来たら、状況は必ず変わるのです。

   イエスさまが読まれた聖書の個所は、旧約聖書の中の『イザヤ書』61章です。「主がわたしを遣わされた」という言葉に深い意味があります。自分の人生を考えるときに、「神さまが、この場所に、この人たちのために、わたしを『遣わされた』のだ」ととらえ直してみると、自分の立場をとても肯定的に受け止めることができると思います。極端な場合、私の具合が悪くて、人のため何かするどころか、人の世話になるようなことになったとしても、それでも、そういうふうに神さまが私をここに遣わしてくださったのだと受け止めることができるはずです。まず、家族の構成メンバーひとりひとりが、家族のために「遣わされた」大切な人であるのだということを改めて考えてみましょう。


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書き下ろし連載126
道しるべ
ルカ福音書4章1−4節

細井保路

   イエスは霊によって荒れ野に導かれ、40日間悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。そこで悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。

   イエスさまは、神さまのことを伝える活動を始める前に、人里離れたところに退いて断食をしながら祈り続けました。この話はそのときのことです。神さまを確かな道しるべとして仰ぎながら生きていこうと思っても、その決心を揺るがすようなできごとや不安はたくさんあります。神さまから離れてしまおうとする思いを「悪魔の誘惑」と表現しているのです。

   ところが、実際は、わたしたちの心は、不安や焦りや闘争心や、さらには恨みのようなものまで抱えこんで、すがすがしさとはほど遠い状態になってしまっているのです。イエスさまは、出会う人々の心の中に、神さまを宿すことのできる静かな場所を探し求めていたのです。そして、見つけると喜んでその人たちを祝福したのです。そのイエスさまが、神殿にやって来ました。神殿は祈るための場所です。つまり、ここに来れば誰でも心の平和を取り戻せる場所であるはずなのです。しかし、その神殿さえも、商売の臭いしかしない場所になってしまっていました。そこでイエスさまは、乱暴な行動に出るのです。人の心にとって一番大切なもの、社会にとって一番大切なもの、それを象徴するはずの大切な場所が尊重されていないことに対して怒りを表されたのでした。

   「生きるために食べ物よりもだいじなものがあるか?」と悪魔が囁きます。それに対してイエスさまは旧約聖書の申命記8章の言葉を引用して答えます。この箇所には、「人はパンだけで生きるのではない」に続いて「神の口から出ることばによって生きる」と書かれています。

   「神の口から出ることば」とは何でしょう。神さまは私たちに何を語っておられるのでしょうか。神さまは何も語らず、何も答えてくださらないように思えます。でも聖書を読んでいくと根源的な「神のことば」が囁くように聞こえてきます。旧約聖書の出エジプト記3章にモーセが神さまの名前を尋ねる場面があります。そこで神さまは名前の代わりに、「私はここにいるよ」とおっしゃるのです。これこそ「神のことば」ではないでしょうか。

   大昔から、人がどこにいても、どんな状況であっても、いつも「私はここにいるよ」とおっしゃる方がいてくださるなら、私たちは、確かな道しるべを持つことになります。大昔の人が星を頼りに航海したように、私たちは「私はここにいるよ」という声を頼りに軌道修正すればよいのです。


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