学校法人
認定こども園 聖愛幼稚園

〒400-0071
山梨県甲府市羽黒町618(地図
TEL 055-253-7788
mail@seiai.net


Last Update: 18/10/12

聖書のお話・・・カトリック甲府教会司祭の細井保路先生が 新たに「聖書のおはなし」を連載してくださいます。細井先生は カトリック教会の保育所、幼稚園でたくさんの子どもたちに 関わってこられ、絵本作家としてもご活躍されています。



書き下ろし連載132
足りないだけではない
ルカ福音書6章20−23節

細井保路

貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである。
今飢えている人々は、幸いである。あなたがたは満たされる。
今泣いている人々は、幸いである。あなたがたは笑うようになる。
人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。 その日には、喜び踊りなさい。天にはおおきな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。

   いつも何かが欠けていて、捨てるべきもの、守るべきものがない状態を、私たちは幸せだとは思えません。蓄えがあることや、大切な人がいることは、私たちが生きる上で大きな支えになっているからです。しかし、元気でいるのが当たり前だと思っている人が、ちょっと体調を崩したときに初めて健康のありがたさに気づくように、自分が大切だと思っていること以外何も目に入っていないような状態が続くと、もっと大きな幸せに気づき損ねてしまうということがあるとイエスさまは言われているのです。

   経済的な安定こそ第一だと考えるのは、間違いではないけれど、何が何でもそれを最優先すれば、もっと大切な何かを失うかもしれません。健康が第一ということも誰も否定しませんが、自分の体のことだけ気遣って心の豊かさを置き去りにしてしまうのは悲しいことです。「自分は損しない」「自分は負けない」「自分は泣かない」と頑張り続けているうちに、やさしさを忘れてしまうのは残念です。

   人の心のあたたかさや優しさは、本当はシャワーのように私たちに注がれているのに、何かが欠けていると思い込み、それにこだわり、追い求め、見当違いな努力を重ねるうちに、当たり前の幸せが見えなくなってしまわないようにしたいものです。足りないものを手に入れるのが間違いなのではなく、足りないものに気づいたら、それ以外のたくさんのものによって満たされていることにも気づくことが大事なのです。


戻る


書き下ろし連載131
新たな力
ルカ福音書5章36−39節

細井保路

   だれも、新しい服から布切れを破り取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい服も破れるし、新しい服から取った継ぎ切れも古いものには合わないだろう。また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は革袋を破って流れ出し、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない。また、古いぶどう酒を飲めば、だれでも新しいものを欲しがらない。「古いものの方がよい」と言うのである。

   慣れ親しんだ習慣を変えるのは、とても難しいことです。人はだれでも、一度安定してしまうと、新しい変化を好まなくなるものです。変わることがどんなによいことであっても、「変化」そのものを嫌う傾向があるのです。本当は毎日自分の体の細胞でさえ入れ替わって新しくなっているのに、我が子の成長を現実に見ているのに、変わることに慎重になるのは考えて見れば不思議です。

   イエスさまは、神を信じることは、何かにこり固まることではなくて、日々新たな気持ちで歩むことだと教えたかったのです。伝えられたこと、教えられたことを忠実に守ることが間違っているのではありません。しかし、それだけを大切にしていたなら、社会も人の心もどんどん狭いものになっていってしまいます。新しい可能性や異なった価値観を取り込むことが出来なくなったとき、私たちの生き方は、柔軟性を失います。イエスさまは、その状態を、弾力を失った古い革袋にたとえたのです。

   自分が手に入れたものだけで自分を守ろうとすると、柔軟な精神を失います。自分が身につけた価値観だけに頼っても柔軟な精神は失われます。生き生きと生きるためには、絶えず新たな力をどこかから、だれかからいただいているのだという謙虚さが必要なのです。 そして実は一番身近なところでは、私たちはその力を我が子かもらっているのです。


戻る


書き下ろし連載130
助け合うこと
ルカ福音書5章30−32節

細井保路

   ファリサイ派の人々や律法学者たちはつぶやいて、イエスの弟子たちに言った。「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか。」イエスはお答えになった。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、つみびとを招いて悔い改めさせるためである。」

   イエスさまが弟子の家に招かれて食事をしていたとき、そこに、宗教上のルールを守らないような人たちもたくさん集まっていたのを、真面目なファリサイ派のひとたちが見とがめます。 そのときのイエスさまの答えが、「医者が必要なのは病人」ということばでした。 私たちは、健康状態がよいときには、何も苦労せずに思った通りに行動できます。 そして、もたもたしている人がいれば、邪魔だとさえ思ってしまうのです。 自分が具合が悪くなって初めて、自分の事情を考慮してほしいと思うのです。 いつでも、さまざまな事情を抱えた人がいることを私たちは忘れています。 できれば考えずに、気づかずに過ごしたいと思っているのです。 そのほうが楽だからです。

   ファリサイ派と言われる宗教上のルールをきちんと守りたい人たちにとっては、ルールを守れないような人たちと一緒にいることはとても不愉快なことでした。 掟や作法を心得た人たちばかりが集まっていれば、何ごともスムーズに遂行されるからです。 その気持ちは、わたしたちもよくわかります。 いちいち説明しなくても共通の理解ができていれば、ものごとは順調に進むし、助けてあげなければいけないような人がいなければ、人のことを心配する必要もなくなるのです。 でも、それでいいのですか?というのが、イエスさまがいつも投げかけるメッセージなのです。

   私たちが、自分の生活の快適さや効率のよさだけを追い求めていたら、助けを必要とする人はどうなるのか。 ときどき立ち止まって考えてみたいことです。


戻る








Copyright © 2017, SEIAI Yochien.
本ページと付随するページの内容の一部または全部について聖愛幼稚園の許諾を得ずに、
いかなる方法においても無断で複写、複製する事は禁じられています。
mail@seiai.net