学校法人
認定こども園 聖愛幼稚園

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Last Update: 19/06/17

聖書のお話・・・カトリック甲府教会司祭の細井保路先生が 新たに「聖書のおはなし」を連載してくださいます。細井先生は カトリック教会の保育所、幼稚園でたくさんの子どもたちに 関わってこられ、絵本作家としてもご活躍されています。



書き下ろし連載141
安心感
ルカ福音書7章41−47節

細井保路

イエスはお話しになった。 「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」シモンは「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ。・・・赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」

   評判の悪い女性が、食事の席に入ってきて、愛情を込めてイエスさまの足に香油を塗ります。同席している人たちは、そのあからさまな行為を不快に思うのですが、その時イエスさまは、このたとえを話されました。

   彼女の多少品のない愛情表現は、イエスさまと出会い、自分がゆるされ、受け入れられていると感じて、そのうれしさからとった行動だったのです。人が愛情豊かに生きるためには、まず、愛され、ゆるされているという実感が必要なのです。しかし、実際には、人の悪意や、心ない言葉にさらされることもあります。だからこそ、家族の愛情が大切なのです。

   イエスさまは、「ゆるされる」という表現を使いますが、これは、「受け入れられている」という意味です。私たちには、この「受け入れられている」という安心感に満ちた体験が、どうしても必要なのです。幼児期にたっぷりと安心感を得られなかったために、その後の人生で、不安感や不信感を抱えながら苦しむ人もいます。しかし、人生に手遅れということはありません。過去にその実感が不足していると思うなら、いつからでも、受け入れられいるという実感を積み重ねていけばいいのです。でも、そのためには、その人を受け入れる誰かが必要です。イエスさまは、その「誰か」であろうとなさったのです。そして、私たちにも、人を愛し受け入れる人になることを望まれたのです。


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書き下ろし連載140
偉大な者
ルカ福音書7章28節

細井保路

   およそ女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない。しかし、神の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。

   ヨハネという人物は、イエスさまよりも先に活動を始め、「もう一度神に立ち帰れ」というメッセージを発信しました。「神に立ち帰れ」という宗教的な言葉は、もう少し一般的な言葉で表現すれば、「世渡りのためや、日々の苦労に振り回されて、人間としての大切なことを忘れてはいないか。本来の自分の居場所に立ち帰れ」ということなのです。

   そのヨハネは、イエスさまが登場すると、イエスさまのスケールの大きさを認め、自分の弟子たちにまでイエスさまを紹介します。それに対して、イエスさまも、ヨハネこそ歴史上のどんな預言者よりも優れていると彼を評価します。でも、そのすぐ後に、「神の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」とつけ加えたのです。

   人を評価したり、批判したりした瞬間に、私達は、この社会の尺度、つまり、権力や、名声や、能力や、お金を基準にして幸福を量っている自分に気づきます。そして、ものごとはそういう尺度でしか量れないと思い込んでしまうのです。でも実は、やさしさや、誠実さといった尺度ももう一方にはあって、それを見失ってしまっては、どれほど社会的に成功しても、本当の幸せを手放してしまうことになるのです。それをイエスさまは「神の国」という言葉を使って想い出させようとなさるのです。一見世間的な幸せとは縁遠いような「まごころ」を失ってはならないのです。そして、どんなに弱く小さい者でもやさしく受け入れられる理想的な世界を「神の国」と呼んでいるのです。現実の社会で力強く生きていきながらも、やさしさを忘れずにいることは、簡単なようで、案外難しいものです。

   私達は、人の幸せの核心部分にある、目には見えない大切なものを、たえず思い出しながら生活しなくてはいけないと思います。


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書き下ろし連載139
人の心に寄り添う
ルカ福音書7章12−15節

細井保路

   イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。 その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。 主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。 そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。 イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。 すると、死人は起き上がってものを言い始めた。 イエスは息子をその母親にお返しになった。

   聖書には、イエスさまが病人を癒やされる話が何度もでてきます。 イエスさまとの出会いには、人が身心に感じている緊張や束縛を解いてくれる力があったというふうに考えることもできます。 また、病からの解放は、絶望している人に神に愛されているという実感を取り戻させるためだったとも言えます。 そんな奇跡は信じられないという人でも、硬直した身心が解きほぐされるだけで、大きな気持ちの変化が起こることは想像できると思います。

   しかし、この話は、病気の回復ではなく、死んだ子どもが生き返るというさらに荒唐無稽な話なのです。 愛する対象を奪われた人の喪失感と悲しみに出会い、イエスさまはそれを見過ごすことができなかったのです。 この奇跡を信じるかどうかは、大した問題ではありません。 イエスさまの心の動きに着目すべきエピソードです。 誰にも慰めることのできない深い悲しみに触れ、思わず「もう泣くな」と声をかけたイエスさまは、人が抱える喪失感に共感できる方だったのです。

   不慮の事故で大切なものを失った人、最愛の人を病で失った人、他人の悪意で財産や信用を失った人、様々な形で深い喪失感と悲しみを抱えている人がいます。 その一方で、それを知っていながら心ない言葉をかける人もいます。 私たちは、せめて、悲しむ人に寄り添う心を持っていたいものです。


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