学校法人
認定こども園 聖愛幼稚園

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Last Update: 19/08/25

聖書のお話・・・カトリック甲府教会司祭の細井保路先生が 新たに「聖書のおはなし」を連載してくださいます。細井先生は カトリック教会の保育所、幼稚園でたくさんの子どもたちに 関わってこられ、絵本作家としてもご活躍されています。



書き下ろし連載142
百倍の実を結ぶ
ルカ福音書8章5−8節

細井保路

   種を蒔く人が種蒔きに出ていった。 蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。 ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。 ほかの種は茨に中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。 また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。

   このたとえに出て来る「種」とは「神のことば」のことだと聖書には説明が書かれています。キリスト教では、イエスさまこそが「神のことば」つまり神からのメッセージだと考えます。 「誰もが神から愛されている」「神はすべての人が救われること、つまり幸せになることを望んでおられる」ということを伝えたからです。 私たちは、辛い経験をすると、このメッセージが聞こえなくなってしまいがちですが、実は太古の昔から、人の心の奥底で、この優しいメッセージは鳴り響いているはずなのです。

   誰もが、神の愛に包まれて生きていると感じられたなら、恵みをいっぱいいただいて生きていると感じられたなら、どんなに幸せなことでしょうか。 そしてそれは不可能ではないのです。 なぜなら、神の恵みは、神の愛のメッセージは、すべての人に例外なく降り注いでいるからです。 このたとえが伝えたいのはそのことなのです。 例外なく与えられている恵みが届かないことがあるとするならば、それは、その本人にだけ問題があるのではなく、社会そのものにも問題があるのです。 人の優しさや愛に心を閉ざす人がいるなら、その原因はこの社会にそしてその成員である私たちにもあるのです。 だからその原因を取り除いていかなければなりません。 一人ひとりが優しさを大切にしてそれを伝えていこうと決心するならば、みんなが幸せになるという理想に少しずつ近づけるのです。 「種は百倍にもなる」のです。 このイメージを大切にして、優しさを子どもたち伝えていきましょう。


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書き下ろし連載141
安心感
ルカ福音書7章41−47節

細井保路

イエスはお話しになった。 「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」シモンは「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ。・・・赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」

   評判の悪い女性が、食事の席に入ってきて、愛情を込めてイエスさまの足に香油を塗ります。同席している人たちは、そのあからさまな行為を不快に思うのですが、その時イエスさまは、このたとえを話されました。

   彼女の多少品のない愛情表現は、イエスさまと出会い、自分がゆるされ、受け入れられていると感じて、そのうれしさからとった行動だったのです。人が愛情豊かに生きるためには、まず、愛され、ゆるされているという実感が必要なのです。しかし、実際には、人の悪意や、心ない言葉にさらされることもあります。だからこそ、家族の愛情が大切なのです。

   イエスさまは、「ゆるされる」という表現を使いますが、これは、「受け入れられている」という意味です。私たちには、この「受け入れられている」という安心感に満ちた体験が、どうしても必要なのです。幼児期にたっぷりと安心感を得られなかったために、その後の人生で、不安感や不信感を抱えながら苦しむ人もいます。しかし、人生に手遅れということはありません。過去にその実感が不足していると思うなら、いつからでも、受け入れられいるという実感を積み重ねていけばいいのです。でも、そのためには、その人を受け入れる誰かが必要です。イエスさまは、その「誰か」であろうとなさったのです。そして、私たちにも、人を愛し受け入れる人になることを望まれたのです。


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書き下ろし連載140
偉大な者
ルカ福音書7章28節

細井保路

   およそ女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない。しかし、神の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。

   ヨハネという人物は、イエスさまよりも先に活動を始め、「もう一度神に立ち帰れ」というメッセージを発信しました。「神に立ち帰れ」という宗教的な言葉は、もう少し一般的な言葉で表現すれば、「世渡りのためや、日々の苦労に振り回されて、人間としての大切なことを忘れてはいないか。本来の自分の居場所に立ち帰れ」ということなのです。

   そのヨハネは、イエスさまが登場すると、イエスさまのスケールの大きさを認め、自分の弟子たちにまでイエスさまを紹介します。それに対して、イエスさまも、ヨハネこそ歴史上のどんな預言者よりも優れていると彼を評価します。でも、そのすぐ後に、「神の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」とつけ加えたのです。

   人を評価したり、批判したりした瞬間に、私達は、この社会の尺度、つまり、権力や、名声や、能力や、お金を基準にして幸福を量っている自分に気づきます。そして、ものごとはそういう尺度でしか量れないと思い込んでしまうのです。でも実は、やさしさや、誠実さといった尺度ももう一方にはあって、それを見失ってしまっては、どれほど社会的に成功しても、本当の幸せを手放してしまうことになるのです。それをイエスさまは「神の国」という言葉を使って想い出させようとなさるのです。一見世間的な幸せとは縁遠いような「まごころ」を失ってはならないのです。そして、どんなに弱く小さい者でもやさしく受け入れられる理想的な世界を「神の国」と呼んでいるのです。現実の社会で力強く生きていきながらも、やさしさを忘れずにいることは、簡単なようで、案外難しいものです。

   私達は、人の幸せの核心部分にある、目には見えない大切なものを、たえず思い出しながら生活しなくてはいけないと思います。


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