学校法人
認定こども園 聖愛幼稚園

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Last Update: 17/08/04

聖書のお話・・・カトリック甲府教会司祭の細井保路先生が 新たに「聖書のおはなし」を連載してくださいます。細井先生は カトリック教会の保育所、幼稚園でたくさんの子どもたちに 関わってこられ、絵本作家としてもご活躍されています。



書き下ろし連載118
温かい眼差し
マルコ福音書9章35−37節

細井保路

   「イエスは座って、12人を呼び寄せて言われた『いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。』そして、一人の子どもの手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。『わたしの名のためにこのような子どもの一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしなった方を受け入れるのである。』」

   「仕える者になる」という精神は、特に人の上に立つ立場の人には、大切なものです。わたしたちは、ついつい自分を何か偉い者であるかのように考えたくなるからです。しかし、わかってはいても、「仕える者になる」というのは、そんなに簡単ではありません。どんなに偉くなっても謙虚な人というのは素晴らしいですが、イエスさまは、謙虚な人になるよう努力しなさいと言っているのではなくて、自分が偉いと勘違いして人を見下した途端に、自分に注がれているあわれみ深い神の眼差しを見失ってしまうということを警告しているのです。

   そして、いつでも優しい眼差しに包まれていることを感じていられる唯一の方法は、優しい眼差しで人に寄り添うことしかないのだと教えられるのです。小さな子どもに寄り添って、優しい眼差しを注ぐとき、もっと大きな温かい眼差しが、その子とわたしの両方を包み込むようにして注がれていることを感じるのです。自分が優しい眼差しを誰かに向けるとき、相手に対する愛おしさだけでなく、もっと大きな幸せを感じるはずです。

   たとえば、子どもに絵本を読んであげるとき、わたしたちは、何層にも重なる温かい眼差しを感じることができるはずです。絵本の登場人物たちの眼差し、それに寄り添うわが子の眼差し、その膝の上のわが子に注がれた私の眼差し、そしてその空間すべてを包み込む何か大きな温かい眼差し。いつも自分の頭上に温かい眼差しを感じながら生活してみましょう。


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書き下ろし連載117
命の輝き
マルコ福音書9章2−8節

細井保路

   「イエスはペトロとヤコブとヨハネを連れて、高い山にお登りになった。そこには彼ら4人しかいなかった。その時、弟子たちの目の前でイエスの姿が変わり、その衣はまっ白に輝いた。その白さはこの世のいかなる布さらしでもなしえないほどのものであった。・・・すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声が聞こえた。『これはわたしの愛する子。彼に聞け』。弟子たちは急いで、辺りを見回したが、自分たちと一緒におられるイエスのほかには、誰も見えなかった。」

   たった一度、イエスさまが、とんでもなく神々しく見えたことを弟子たちは伝えています。しかもそれは、イエスさまが堂々と語っている時でもなく、華々しく活躍している時でもなく、数人でひっそりと祈っている時のことでした。私たちは、過去の歴史や、周りの社会や、与えられた環境を背負って生きています。ふだんはその中に埋没して暮らしているのですが、その背負っていると感じているものに、実は支えられているのだということに気づくことがあります。さらに、私たちを支えている社会や自然や過去の歴史が、ふわりとその人の存在を包んでいるように感じるときがあります。その人が偉業を成し遂げたとか、威厳のある姿であらわれたとかいうのではなく、むしろ、環境に支えられた小さな存在であるにもかかわらず神々しく見える瞬間というのがあるものです。

   カトリック教会では、日曜日の礼拝であるミサのときに、最後の晩餐をかたどって、パンを配りますが、そのパンを頂くために祭壇にやって来る人たちを見ていると、一人ひとりにその人の人生があり、社会に自然環境に歴史に包まれ、押し出されるようにして前に進み出て来るのだと気づき、まさにその一人ひとりに向かって神さまが「これはわたしの愛する子」と言っておられるのだと感じると、感動で涙が出そうになります。

   お子さんの寝顔を見ているときなどに感じるいとおしさを大切にしましょう。


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書き下ろし連載116
すばらしい命
マルコ福音書8章34−37節

細井保路

   「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、福音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」

   「自分を捨てろ」というのは、極端な言葉です。そう言っておきながら、「自分の命を失ったら何の得があろうか」と言うのは矛盾しているように聞こえます。しかし、イエスさまは、神さまがくださった命を大切にしなさいということをおっしゃりたいのです。

   子どもの小さな命は日々成長します。わたしたちはよりよいものを求めて努力もします。新しくなること、変化することは、生きているあかしのようなものです。しかし、前人未踏のすばらしいことを成し遂げる人にとっても、力を発揮できずに苦しむ人にとっても、神さまが与えてくださった本来の命の姿は変わらないのです。だから、どれほど進歩と成長があったとしても、見当違いの方向へ向かっているならば、それは本当の幸せにはならないのです。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失う」とイエスさまがおっしゃるのは、そのためです。

   自分が成功すること、自分が得することだけを考えるのは間違いだと誰もが知っています。しかし、自分の満足だけを求めてしまう自己中心的な思いは、誰の心の中にも潜んでいます。もっと大事なものがあること、自分のことを心配してくれる人がいること、自分が喜ばせることのできる人がいること、そういうことに気づかせる役割は、親にあるのです。人生の様々な場面で、自分を犠牲にしてでも守るもがあることに気づくことはあります、でも、見守ってくれている親の存在を肌で感じることができる子どもは、必死になって獲得するまでもなく、すばらしい命が与えられていることに気づくことができるのです。


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