学校法人
認定こども園 聖愛幼稚園

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Last Update: 21/03/25

聖書のお話・・・カトリック甲府教会司祭の細井保路先生が 新たに「聖書のおはなし」を連載してくださいます。細井先生は カトリック教会の保育所、幼稚園でたくさんの子どもたちに 関わってこられ、絵本作家としてもご活躍されています。



書き下ろし連載162
心に灯をともす
ルカ福音書11章33−36節

細井保路

   ともし火をともして、それを穴蔵の中や、升の下に置く者はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。あなたの全身が明るく、少しも暗いところがなければ、ちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らすときのように、全身は輝いている。

   私たちのいのちは、「輝くともし火」なのだとイエスさまは言われます。だからお互いにいのちの輝きを消さない優しさを持ちなさいとと言うのです。そして、灯から連想して、純真なまなざしと邪悪なまなざしのはなしをなさいます。

   「目が澄んでいれば」つまり、純真なまなざしを持っていれば、自分を包む世界の美しさを見ることができるけれど、そのまなざしが濁ってしまうと、私を取り巻く世界も暗いものになってしまうのです。もちろん私たちは、いいことばかりに囲まれて生きているわけではなく、なぜ私がこんなに辛いことを引き受けなければならないのかと恨みごとを言いたくなるようなこともあるかも知れません。しかし、そんなことに負けずに、自分を取り巻く世界を明るく照らすことは必ずできるのです。

   自分の心にともし火をともすことができたら、周囲が明るく見えるだけでなく、周囲を明るくすることができるのです。そして、それができたとき、実は、私が努力して火をともしたのではなく、初めから輝くともし火としていのちを与えられているのだということにも気づくのです。

   神さまがともしてくださった火をくすぶらせて、暗い暗いとつぶやくのではなく、いただいた火をさらにあかあかと燃え立たせるようにしましょう。そして、わが子の内にも輝くともし火が備えられていることを伝えましょう。


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書き下ろし連載161
「やさしさ」の選択
ルカ福音書11章20−23節

細井保路

   わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。強い人が武装して自分の屋敷を守っているときには、その持ち物は安全である。しかし、もっと強い者が襲って来てこの人に勝つと、頼みの武具をすべて奪い取り、分捕り品を分配する。わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。

   聖書の中に出て来る、「神の慈しみ」とか「神の赦し」という言葉が意味しているのは、究極のやさしさや思いやりのことです。そして、それが存在するところでは、神の愛に反するものは退散せざるをません。また、聖書で「悪霊を追い出す」と言っているのは、オカルト的な魔術の話ではなく、イエスさまが、人を癒やし、救おうとして働かれるとき、神の愛に反するものは消えていくということを言っているのです。だから、別の箇所では、「弟子たちにも悪霊を追い出す力を与えた」と書かれているのです。光が灯されれば周りが明るくなるように、やさしさを携えた人が一人いれば、必ずそこに幸せが生まれるのです。悪の力がどれほどしぶとくても、神さまから来る力は必ずそれを凌駕するということを、「もっと強い者が勝つ」というたとえで示しているのです。そしてこの力が働くためには同じ思いを持った人が必要なのです。だからイエスさまは、「わたしと一緒に働いてくれ」と訴えるのです。「わたしと一緒に集めない者は散らしている」という言葉は、「一緒に、この世界にやさしさを広げよう」という呼びかけなのです。

   一見何の力もないように思える「やさしさ」こそが、人を苦しめる様々な悪を退散させる力であることを、私たちは本当は気がついているのだと思います。この「やさしさ」でわが子を包みましょう。その「やさしさ」の大切さをわが子に伝えていきましょう。可能な限り「やさしさ」の方を選択するなら、それは、イエスさまの「味方」につくことになります。


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書き下ろし連載160
相手をよろこばせる
ルカ福音書11章9−13節

細井保路

   求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば見つかる。門を叩きなさい。そうすれば開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門を叩く者には開かれる。あなたがたの中に、魚を欲しがる子どもに、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子どもには良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。

   神さまはわたしたちを救ってくださるのだから、本気で求めれば必ず救いがあるとイエスさまはおっしゃいます。「救い」などという大げさな言葉を聞くと、とたんに他人事ののように思えてしまいますが、「悪人ですら、わが子が喜ぶ顔がみたいのだ」という言い方は、いかにもイエスさまらしいと思います。

   怖い顔をして、救いや正義について語る前に、「私は人を喜ばせようとしているだろうか」と考えてみることが大事なのです。なぜなら。私たちが求めている「救い」や「幸せ」は、直面する困難から抜け出して、「喜び」を手にすることにほかならないからです。だから、難しいことを考える前に、「最近、家族の喜ぶ顔を思い浮かべながら行動しているだろうか」と自問してみるべきです。

   批判したり、責めたり、クレームをつけたり、無視したり、そんなことばかりの日常であるなら、私たちはどんどん「幸せ」から離れていきます。でもその反対に、相手の喜ぶ顔を想像しながら一つひとつの事柄に対処していくなら、「幸せ」は向こうから私たちのほうへ近づいてくるのです。しかもそれは、だれもが経験していて、無意識のうちに、私たちは幸せを呼び寄せているはずです。

   だからこそ、不満や不安が募ったときには、意識的に、誰かを喜ばせることを考えるようにしましょう。


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