学校法人
認定こども園 聖愛幼稚園

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Last Update: 18/12/08

聖書のお話・・・カトリック甲府教会司祭の細井保路先生が 新たに「聖書のおはなし」を連載してくださいます。細井先生は カトリック教会の保育所、幼稚園でたくさんの子どもたちに 関わってこられ、絵本作家としてもご活躍されています。



書き下ろし連載134
クリスマスを迎える心
ルカ福音書6章35−36節

細井保路

   あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。

   キリスト教では、12月25日にイエスさまの誕生を祝います。実際にいつお生まれになったかは不明ですが、やっと日が長くなり始めるこの時期には古来、太陽を待ちわびる様々なお祭りがあり、それに合わせて「救い主」の誕生を祝うようになったのです。イエスさまの誕生は、最初に貧しい羊飼いたちに知らされました。そのとき、天使たちが、「いと高き天には、神に栄光、地には、御心にかなう人々に平和」と歌ったと聖書には書かれています。どこまでも憐れみ深い神の想いをこの世界に浸透させることこそが、イエスさまに託された使命だということを暗示しているかのようです。

   そして、イエスさまはまさに、「神があわれみ深いように、あなたがたもあわれみ深くなりなさい」と教えられたのです。

   わたしたちは、誰が偉いか、どちらが得か、というような価値観に振り回されがちで、いつも誰かを蹴落としたり、軽蔑したり、断罪したりして自分の立場を守ろうとするのです。しかし、本当の幸せを手にいれようと思うなら、自分がなんとか上に這い上がるのではなく、相手の尊厳をみとめ、高めるというとてつもない寛大さこそが必要なのです。それをイエスさまは、「敵をも愛せよ」という言葉に込められました。

   あきれるほどのおおらかさが要求されています。そしてそんな大きな人間はなかなかいません。なかなか実践できないとわかっていても、いつも相手の価値を高め、ゆるし、寛大に見守ることをわたしたちの究極の目標にしておきたいものです。


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書き下ろし連載133
広い心
ルカ福音書6章27−31節

細井保路

   敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。

   これは、聖書の言葉の中でも、最も現実離れした言葉かも知れません、 仮に私を侮辱する人のために祈ることができたとしても、おそらくその相手に対する軽蔑の感情をまったく抜きに祈ることはむずかしいだろうと思います。 有名な「右の頬を打たれたら左の頬も出せ」ということばも、卑屈な感情にならずに実践することなど不可能に違いありません。 何かを奪われたり、だまし取られたりしたら、泣き寝入りすることはあったとしても、寛大にゆるすことなど到底できません。

   ではなぜイエスさまは、こんな理不尽なことを語られたのでしょうか。 それは、本来私たちには、これほどスケールの大きなゆるす心が与えられていることに気づかせるためなのです。 悪は裁かれるべきであり、損害は償われるべきであるという当たり前の中で生きているうちに、私たちの心はどんどん狭いちっぽけなものになっていってしまうのです。 相手を裁くことの応酬が繰り返され、人の心ばかりか、社会そのものが殺伐としていくばかりです。 それが当たり前になってしまうと、寛大な心をイメージすることさえできなくなってしまいます。

   イエスさまの言葉を、実践することなど無理と遠ざけてしまう前に、そんなとてつもない寛大さを忘れないようにしようと思うだけでいいのです。 そして、その理想に近づく第一歩は、「人にしてもらいたいと思うことを、人にもする」ということなのです。


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書き下ろし連載132
足りないだけではない
ルカ福音書6章20−23節

細井保路

貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである。
今飢えている人々は、幸いである。あなたがたは満たされる。
今泣いている人々は、幸いである。あなたがたは笑うようになる。
人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。 その日には、喜び踊りなさい。天にはおおきな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。

   いつも何かが欠けていて、捨てるべきもの、守るべきものがない状態を、私たちは幸せだとは思えません。蓄えがあることや、大切な人がいることは、私たちが生きる上で大きな支えになっているからです。しかし、元気でいるのが当たり前だと思っている人が、ちょっと体調を崩したときに初めて健康のありがたさに気づくように、自分が大切だと思っていること以外何も目に入っていないような状態が続くと、もっと大きな幸せに気づき損ねてしまうということがあるとイエスさまは言われているのです。

   経済的な安定こそ第一だと考えるのは、間違いではないけれど、何が何でもそれを最優先すれば、もっと大切な何かを失うかもしれません。健康が第一ということも誰も否定しませんが、自分の体のことだけ気遣って心の豊かさを置き去りにしてしまうのは悲しいことです。「自分は損しない」「自分は負けない」「自分は泣かない」と頑張り続けているうちに、やさしさを忘れてしまうのは残念です。

   人の心のあたたかさや優しさは、本当はシャワーのように私たちに注がれているのに、何かが欠けていると思い込み、それにこだわり、追い求め、見当違いな努力を重ねるうちに、当たり前の幸せが見えなくなってしまわないようにしたいものです。足りないものを手に入れるのが間違いなのではなく、足りないものに気づいたら、それ以外のたくさんのものによって満たされていることにも気づくことが大事なのです。


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