学校法人
認定こども園 聖愛幼稚園

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Last Update: 17/11/02

聖書のお話・・・カトリック甲府教会司祭の細井保路先生が 新たに「聖書のおはなし」を連載してくださいます。細井先生は カトリック教会の保育所、幼稚園でたくさんの子どもたちに 関わってこられ、絵本作家としてもご活躍されています。



書き下ろし連載121
百倍のしあわせ
マルコ福音書10章28−31節

細井保路

   「ペトロがイエスに、『このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました』と言いだした。イエスは言われた。『はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子ども、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子ども、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。』」

   「福音のためにすべてを捨てたら百倍を受ける」つまり「捨てることこそが本当に豊かになること」というのは、禅問答のような話です。イエスさまが語る「福音」とは、神さまが全ての人の幸せを望んでおられるというメッセージのことです。人の幸せを願いつつ生き、何にもとらわれないでいれば、たとえ困難の中にあっても、いつも豊かに生きられるというのです。そんな修行僧のような生き方はしたくないと私たちは思います。でも、イエスさまは、努力して何かを捨てよとおっしゃっているのではないのです。そんな力の入った窮屈な生き方が幸せであるはずがありません。弟子のペトロは、「何もかも捨ててあなたに従いました」と誇らしげに言うのですが、一生懸命何かに打ち込むと、目標だけしか見えなくなります。また、たくさんのことを犠牲にして自分の力や時間を捧げると、報われなかったときの失望はとても大きくなります。

   努力の果てに何かを捨てるのではなくて、広い心で人の幸せを最優先し、自分の予定や利益をちょっと後回しにしてみるだけで、人は実におおらかに幸せな気分で生きられるのです。損をしたとか、悔しいとかいう気持ちは、計算ずくで生きているからこそ生まれてくる感情です。そういうマイナスの感情が湧いてきたときには、「後の者が先になる」事もあるという言葉を思い出せばいいのです。損をしていると感じるときでさえ、実は「百倍」の幸せがいつも私の手の内にあるのです。「百倍」という大げさな言葉にイエスさまのユーモアが感じられます。


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書き下ろし連載117
命の輝き
マルコ福音書9章2−8節

細井保路

   「イエスはペトロとヤコブとヨハネを連れて、高い山にお登りになった。そこには彼ら4人しかいなかった。その時、弟子たちの目の前でイエスの姿が変わり、その衣はまっ白に輝いた。その白さはこの世のいかなる布さらしでもなしえないほどのものであった。・・・すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声が聞こえた。『これはわたしの愛する子。彼に聞け』。弟子たちは急いで、辺りを見回したが、自分たちと一緒におられるイエスのほかには、誰も見えなかった。」

   たった一度、イエスさまが、とんでもなく神々しく見えたことを弟子たちは伝えています。しかもそれは、イエスさまが堂々と語っている時でもなく、華々しく活躍している時でもなく、数人でひっそりと祈っている時のことでした。私たちは、過去の歴史や、周りの社会や、与えられた環境を背負って生きています。ふだんはその中に埋没して暮らしているのですが、その背負っていると感じているものに、実は支えられているのだということに気づくことがあります。さらに、私たちを支えている社会や自然や過去の歴史が、ふわりとその人の存在を包んでいるように感じるときがあります。その人が偉業を成し遂げたとか、威厳のある姿であらわれたとかいうのではなく、むしろ、環境に支えられた小さな存在であるにもかかわらず神々しく見える瞬間というのがあるものです。

   カトリック教会では、日曜日の礼拝であるミサのときに、最後の晩餐をかたどって、パンを配りますが、そのパンを頂くために祭壇にやって来る人たちを見ていると、一人ひとりにその人の人生があり、社会に自然環境に歴史に包まれ、押し出されるようにして前に進み出て来るのだと気づき、まさにその一人ひとりに向かって神さまが「これはわたしの愛する子」と言っておられるのだと感じると、感動で涙が出そうになります。

   お子さんの寝顔を見ているときなどに感じるいとおしさを大切にしましょう。


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書き下ろし連載119
何を優先するか
マルコ福音書10章13−16節

細井保路

   「イエスに触れていただくために、人々が子どもたちを連れてきた。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。『子どもたちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。』そして、子どもたちを抱き上げ、手を置いて祝福された。」

   私たちは、目的を持って行動しています。目的などははっきり意識していなくても、やらなければならない仕事を抱えて生活しています。休みの日でも、やるべきことがいっぱいあります。イエスさまも、私たちと同じように、やるべきことを思い定めて、優先順位をつけて行動していたのです。そして、その優先順位からすれば、勝手にやって来る親子連れに関わっている時間など無かったに違いないのです。少なくとも、イエスさまと一緒に行動していた弟子たちにはそう思えました。だから、弟子たちは、イエスさまを煩わせないようにとの心遣いで、子どもたちを追い払おうとしたのです。

   しかしイエスさまは、その弟子たちの行動を強く叱責します。子どもたちの純粋なまなざしの中に、「神のまなざし」を見つけたからだ言うことができます。大きく、優しく、温かい神のまなざしを感じさせるようなものに出会ったら、わたしたちは、仕事の優先順位など度外視して、ほんの一瞬でもそのまなざしを受け取り、感じ取ることが大切だと弟子たちに教えられたのです。

   子育てに煩わしさを感じるのは、ただでさえやらなければならないことが多いのに、子どものために繰り返しそれを中断させられるからです。でも、その時にちょっとこのイエスさまの行動を思い出してみましょう。子どもとアイコンタクトをとるだけでも、ちょっと抱き寄せてあげるだけでもいいのです。やさしいまなざしを取り戻すことこそが最優先課題であることを思い出しましょう。


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