学校法人
認定こども園 聖愛幼稚園

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Last Update: 24/07/13

聖書のお話・・・カトリック甲府教会司祭の細井保路先生が 新たに「聖書のおはなし」を連載してくださいます。細井先生は カトリック教会の保育所、幼稚園でたくさんの子どもたちに 関わってこられ、絵本作家としてもご活躍されています。



書き下ろし連載201
願い続ける幸せ
マタイ福音書5章3〜10節

細井保路

   心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる。
柔和な人々は、幸いである。その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は、幸いである。その人たちは満たされる。
憐れみ深い人々は、幸いである。その人たちは憐れみを受ける。
心の清い人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。
義のために迫害される人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。

   普通の日本語の表現では、「心が貧しい人」とは、度量が狭く、相手の幸せを考えられないような人のことを指します。 だから、この聖書の言葉は誤解されやすいのですが、自分の人生は自分で勝ち得たものではなくて、神さまから与えられ、また、他の人たちに支えられているのだと謙虚に認める人のことを指しているのです。 ですから、別の訳語を当てたほうがいいのでしょうが、直訳すると、「霊において貧しい人」となり、やはり分かりにくいので、この表現に落ち着いているようなのです。

   本当に幸せな人は、神さまからいただいている恵みで満たされていると感じている人なのです。 しかし、それで自己満足に陥るのではなく、現実の世界はまだ十分に神さまがくださるものを受け止めていないのだから、そのために生じる苦しみや悲しみからこの世界が救われるようにという願いを持ち続けることが大切なのです。 本当の幸せは自分の満足で完結するのではなく、人の幸せを願い続ける役割が自分にあると知ることによって得られるのです。

   「貧しさ」という言葉は「願い続ける」ということを意味しているのです。 八つの言葉で、願い続けることの大切さを伝えているのです。 「柔和な人は・・・地を受け継ぐ」というのは、幸せを願うならば、「やさしさ」を親から子へ伝え続けなさいと言っていることになります。


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書き下ろし連載199
人のおかげで今がある
マタイ福音書4章1〜4

細井保路

   イエスは、40日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。 すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。 「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。 「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」

   救いとは、どんな罪もゆるされるということだとイエスさまは言われました。言いかえれば、どんな人も神さまの前では完全ではありえず、ゆるされなければならない存在だということです。それを認めることが、神さまを信じ受け入れることなのです。神さまが私たちをゆるしてくださっていることを受け入れることなのです。そのことのしるしとして、イエスさまの死があり、そのことの保証として復活というゴールが示されたのです。

   イエスさまは、別の表現でもこのことを語られます。マルコ福音書の3章にこんな言葉があります。「人の子らが犯す罪やどんな冒涜(ぼうとく)の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」

   聖霊とは、私たちの内で自由に働かれる神さまのことです。私たちが不安や恐れから解放されるためには、怒りや後悔から解放されるためには、神さまのゆるしを信じ受け入れることが必要なのです。しかし私たちは、自分のことはゆるしてもらいたいけれど、人のことはなかなかゆるせないばかりか、平気で責めたり裁いたり憎んだりするのです。それは「神の赦し」を受け入れていないことにほかなりません。だからイエスさまは弟子たちに、「約束された、高い所からの力に覆われる」のを待つようにと言われたのです。聖霊に満たされること、神のゆるしを確かに受けいれることが何よりも大切だという意味です。


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書き下ろし連載198
愛のメッセージ
マタイ福音書3章16〜17

細井保路

   イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。 そのとき、天がイエスに向かって開いた。 イエスは、神の霊が鳩のようにご自分の上に降ってくるのをご覧になった。 そのとき、「これは私の愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

   イエスさまは、活動を始めるにあたり、ヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けられたと聖書は伝えます。 洗礼とは、水をかぶることですから、贅沢な身なりのままではできませんし、大切なものを抱えたままでもできません。 つまり、自分のこだわりを捨てることが求められているのです。 こだわりを捨てたままでは、空っぽの人間です。大切なことは、こだわりや勘違いを手放した後、その空白を何で埋めるかということです。 結論からいうと、空っぽの心は神さまの愛で満たされるべきなのです。

   神さまからすばらし恵みをいただいていると気づくと、わたしたちはとたんに思い違いをして、だったら人の分まで恵みをいただいてしまおうと思うのです。 人は幸せになるように生まれていると気づくと、またまた思い違いをして、だったら他人はどうでもいいから私は幸せになろうと思うのです。 神さまは人間に神のようないのちをくださったと言われると、だったらもはや神はいらないという思い違いをしてしまうのです。

   間違ったこだわりや何かにとらわれた心を手放したとたん、私たちは本来の神さまのいのちで満たされるはずなのです。 謙虚にヨハネの前に膝をかがめたイエスさまに「これはわたしの愛する子」という神さまからのメッセージが聞こえたのです。 「お前を愛している」という神さまのメッセージは、私たち一人ひとりにも注がれているのです。 でも変な思い違いやこだわりのために、このメッセージが響いてこないのです。

   わが子にこのメッセージがしっかり届くために、何をすべきかを考えていきましょう。


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