学校法人
認定こども園 聖愛幼稚園

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Last Update: 22/05/02

聖書のお話・・・カトリック甲府教会司祭の細井保路先生が 新たに「聖書のおはなし」を連載してくださいます。細井先生は カトリック教会の保育所、幼稚園でたくさんの子どもたちに 関わってこられ、絵本作家としてもご活躍されています。



書き下ろし連載175
放蕩息子の話
ルカ福音書15章11〜20

細井保路

   ある人に息子が二人いた。・・・父親は財産を二人に分けてやった。・・・下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。 何もかも使い果たしたとき・・・彼は我に返って言った。・・・「ここをたち、父のところに行って言おう。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇人の一人にしてください』と。」 彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、あわれに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。

   前回、聖書に出て来る「悔い改める」という言葉の真意は、自らが反省して詫びることである以前に、神さまの愛に出会うことなのだということを書きました。「放蕩息子の譬え」として知られているこのお話は、そのことを印象深く語っています。そして、息子を迎え入れた父親は、「死んでいた息子が生き返ったようなものだ」と言って祝宴を催します。

   愚かしくさえ思える無条件の、無償の愛が描かれています。神さまの愛は、私たちが持っているような、料簡の狭いちっぽけな愛ではないということです。「神さまとは何か?」という問いに対しては、それが一つの答えですけれど、別の問いも考えられます。「本当幸せとは何か?」という問いの答えとしてこのたとえ話を読んでみましょう。答えは、「本気で愛してくれる人がいること」です。「過去のことや、さまざまな解決すべき事柄はさておき、今私の腕の中にいるあなたが、愛おしい」と言ってくれる存在に出会うことです。私たちは、わが子に対して、そういう存在になれているでしょうか。神さまではないのだから、完璧である必要はありません。でも、親だからこそ、このたとえ話の父親が持っているような無償の愛をわが子に伝えることが出来るのです。


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書き下ろし連載174
大きな愛のまなざし
ルカ福音書15章4〜7

細井保路

   あなたがたの中に、100匹の羊を持っている人がいて、その1匹を見失ったとすれば、99匹を野原に残して、見失った1匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、「見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください」と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める1人の罪びとについては、悔い改める必要のない99人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。

   イエスさまが罪びとたちと付き合っている、という批判に対してイエスさまはこのたとえ話をなさいました。「罪びと」とは、犯罪者のことではなく、貧しさやさまざまな理由で社会的義務を果たせなかったり、当時の宗教儀礼を守れなかったりする人のことです。社会人としてまっとうに生きていると自負する人たちは、えてしてそういう弱い立場の人を軽蔑したり排斥したりするのです。

   わたしたちが軽視しがちな人たちも、神さまにとってはかけがえのない大切な人なのだとイエスさまはおっしゃるのです。しかも、羊飼いが一方的に迷子の羊を探しだしてあげたことを、「悔い改める」という言葉で表現します。「悔い改める」ことの真意は、自らが反省して詫びることである以前に、神さまの愛に出会うことなのだとおっしゃりたいからです。

   わが子のことならば、私たちもこの羊飼いのようにふるまうでしょう。でもよそのお子さんについてはどうでしょうか。「あんな子がいるから困る」などと、簡単に決めつけたりしていないでしょうか。

   保育者は、まさにこのたとえ話の羊飼いのような姿勢で、どの子も大切に受けとめています。保護者の皆さんも、まずわが子のことを最優先に考えるとともに、大きな愛のまなざしで、園に集まって来る一人ひとりの子どもをかけがえのない存在として受けとめてほしいと願っています。


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書き下ろし連載173
みんなが招かれている
ルカ福音書14章16〜24

細井保路

   ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、宴会の時刻になったので、しもべを送り、招いておいた人々に、「もう用意ができましたから、おいでください」と言わせた。すると皆、次々に断った。最初の人は。「畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください」と言った。ほかの人は、「牛を2頭ずつ5組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください」と言った。また別の人は、「妻を迎えたばかりなので、行くことができません」と言った。しもべは帰って、このことを主人に報告した。すると、家の主人は怒って、しもべに言った。「急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。」やがて。しもべが。「ご主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席があります」と言うと、主人は言った。「通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れてきて。この家をいっぱいにしてくれ。言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない。」

   「宴会」とは「神の国」のことをたとえています。神の国とは、神の望まれる世界のことですから、それは、すべての人が幸せになることです。「宴会に人を招く」という話を通して、イエスさまは、誰もが幸せになるように招かれているとおっしゃっているのです。

   たとえ話の中で、最初に招かれる人たちは、自分は幸せになる資格があると思っている人たちです。その人たちは心のどこかで、「幸せになる資格のないやつもいる」と思っているのです。そして自分中心の目先の幸せを追い求め、本当の幸せを見逃してしまうこともあるのです。もう一方で、自分には幸せは縁遠いと思い込み諦めている人もいます。そういう人たちに向かって、みんなが招かれているのだ、とイエスさまは訴えておられるのです。


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