殺人事件や、紛争による殺戮のニュースなどを聞くと、暗い気持ちになります。
でもどこか他人事のように感じます。いやむしろ、他人事であってほしいと願います。
イエスさまは、人のいのちを奪うことの根っこは、人を見下すことにあるのだと言われるのです。
「人を殺すなんてとんでもない」と思っていても、心の中で誰かを見下しているなら、あなたは、殺人者を裁く資格はない、ということになります。
そして不思議なことを言われるのです。
「神に祈るときに、誰かに反感を持たれていたら、まず和解しろ」と。
とてもできそうにない話です。煩わしい相手は無視するので精一杯です。
嫌な人のことは相手にしないというのが、心の健康を保つためにも必要に思えます。
しかし、そうやって割り切っているつもりが、いつの間にか、その嫌な相手を軽蔑し、見下していることになりがちです。
相手の存在を大切にする気持ちを手放してしまったら、それは自分自身の心を傷つけることにもなるのです。
さらにイエスさまは、「『姦淫するな』と命じられているが、みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのだ」と畳みかけます。
これも、相手の存在を、尊厳を大切にしているかという問いかけです。
お互いに、相手の存在を高め合うという姿勢を忘れないようにしましょう。
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わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。
廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。
すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。
だからこれらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。
しかし、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。
イエスさまを取り巻くイスラエル民族の文化は、聖書を神さまからのメッセージとして重んじていました。
そして、そこに書かれている掟を守ることが大事だとされてきました。
でも、聖書の初めに書かれている大切なメッセージは読み落とされていました。
皆さんもご存じの、天地創造の話です。天地創造の話の要点は、すべては神のいのちのうちにあるということと、それゆえ、この世界のものすべては本来、神の望みにかなった「よいもの」であるということです。
そのメッセージに気づけば、私たちは、特定の者だけが救われるとか、祈るために作法を守らなければいけないとか、条件に合わないものは排除されたり差別されたりするという狭い考え方から解放されるはずなのです。
宗教の本来の目的は、否定されたり排除されたりするものが無くなることであるはずなのに、現実はそれとは程遠い状態です。
神さまが造られた世界を自分たちの勝手な取り決めで選別してしまうのです。
大きな神さまのいのちを切り刻んでしまっているのです。
イエスさまは、私たちの心の狭さを打ち破ろうとされました。
伝統や習慣を重んじていた人たちには、伝統の破壊者にしか見えませんでした。
それに対して、イエスさまは、「聖書の言葉は一文字たりとも軽んじてはいけない。
そうしないと、一番大事なものが見えなくなる」と訴えたのです。
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あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。
あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。
そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。
「塩」とは、人が本来持っている、「相手を生かす力」のことです。
自分も、そしてどんな人も、その力を持っていることに気づきなさいと言っているのです。
「光」についても同じです。誰もが「相手を照らす光」であると言うのです。
一人の命がそこにあるならば、それはおのずとあたりを照らすのです。
無理やりあるべき姿に教育するなどということは、「ともし火をともして升の下に置く」ようなものだと言えます。
輝いているともし火を吹き消すことなどはもってのほかです。
すでに備わっている力、おのずと育っていく命を尊重することが大切です。
「世を照らす光になりなさい」と子どもに教えるのではなくて、「あなたは家族を元気づけてくれる明るい光だ」ということを認めてあげましょう。
子どもに初めから備わっている「光」が輝き続けるためには、その灯がともっていることを喜び、感謝する人が必要なのです。
イエスさまは、「山の上の街の明かり」が見える安心感をイメージしていたようです。
どんどん育っていく子どもを中心にした社会は、本来、喜びと感謝にあふれているものです。
大人の都合ではなくて、子どもの中で今育っているものを見つけるつもりで寄り添ってみると、それはそれは楽しい、輝かしい子どもの姿が見えて来るはずです。
夏休みに、少し心に余裕をもって、子どもたちの中の「光」をみつけてみましょう。
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