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認定こども園 聖愛幼稚園

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Last Update: 18/08/13

聖書のお話・・・カトリック甲府教会司祭の細井保路先生が 新たに「聖書のおはなし」を連載してくださいます。細井先生は カトリック教会の保育所、幼稚園でたくさんの子どもたちに 関わってこられ、絵本作家としてもご活躍されています。



書き下ろし連載130
助け合うこと
ルカ福音書5章30−32節

細井保路

   ファリサイ派の人々や律法学者たちはつぶやいて、イエスの弟子たちに言った。「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか。」イエスはお答えになった。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、つみびとを招いて悔い改めさせるためである。」

   イエスさまが弟子の家に招かれて食事をしていたとき、そこに、宗教上のルールを守らないような人たちもたくさん集まっていたのを、真面目なファリサイ派のひとたちが見とがめます。 そのときのイエスさまの答えが、「医者が必要なのは病人」ということばでした。 私たちは、健康状態がよいときには、何も苦労せずに思った通りに行動できます。 そして、もたもたしている人がいれば、邪魔だとさえ思ってしまうのです。 自分が具合が悪くなって初めて、自分の事情を考慮してほしいと思うのです。 いつでも、さまざまな事情を抱えた人がいることを私たちは忘れています。 できれば考えずに、気づかずに過ごしたいと思っているのです。 そのほうが楽だからです。

   ファリサイ派と言われる宗教上のルールをきちんと守りたい人たちにとっては、ルールを守れないような人たちと一緒にいることはとても不愉快なことでした。 掟や作法を心得た人たちばかりが集まっていれば、何ごともスムーズに遂行されるからです。 その気持ちは、わたしたちもよくわかります。 いちいち説明しなくても共通の理解ができていれば、ものごとは順調に進むし、助けてあげなければいけないような人がいなければ、人のことを心配する必要もなくなるのです。 でも、それでいいのですか?というのが、イエスさまがいつも投げかけるメッセージなのです。

   私たちが、自分の生活の快適さや効率のよさだけを追い求めていたら、助けを必要とする人はどうなるのか。 ときどき立ち止まって考えてみたいことです。


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書き下ろし連載129
思いやり
ルカ福音書5章18−23節

細井保路

   男たちが中風を患っている人を床に乗せて運んで来たが・・・群衆に阻まれて、 運び込む方法が見つからなかったので、屋根に登って瓦をはがし、人々の真ん中のイエスの前に、病人を床ごとつり降ろした。 イエスはその人たちの信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われた。 ところが、律法学者たちは考え始めた。「神を冒涜するこの男は何者だ。いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」 イエスは、彼らの考えを知って、お答えになった。「何を心の中で考えているのか。『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。」

   イエスさまが病人を癒やされる話です。しかも、病人をなんとかイエスさまに会わせようとする男たちは、人の家を平気で壊したりするのです。私たちの日常や常識からかなり遠く離れた話のように思えます。でも、このエピソードの中でのイエスさまの言葉には、はっとさせられます。

   私たちは、歩けない人に向かって「起きて歩け」というようなことを言っていないでしょうか。問題を抱えている人に出会うと、簡単にその人の責任だとして済ませていないでしょうか。イエスさまは、苦しんでいる人を見たら、まず「ゆるされている」と言えとおっしゃるのです。「あなたはゆるされている」と伝えることはつまり、あなただけの責任ではない、あなたのことを責める前にまず受け入れたいと思う、あなたはこの苦しみから救われる権利がある、というようなメッセージを送ることです。それは必ずしも言葉にならなくてもいいのです。動けずに立ちすくんでいる人に「勝手に歩け、さっさと歩け」と言って蹴飛ばすようなことをしないだけでいいのです。人を思いやる気持ちを忘れなければいいのです。しかし、気がつくと私たちは、簡単に思いやりを捨てています。自分の都合を最優先しがちです。子育ては、親の都合を最優先しないということであるはずです。


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書き下ろし連載128
見守りながら
ルカ福音書5章4−11節

細井保路

   イエスはシモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。そして漁師たちがその通りにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。・・・イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。

   このエピソードには、そういうシモンのすばらしい資質がよく表れているのですが、同時に、教育者としてのイエスさまの魅力も描かれています。自分の小ささを思い知らされているシモンに、追い打ちをかけるような言葉はひと言もおっしゃらず、むしろ、「網で魚を集める経験は積んできているのだから、今度は、私と一緒に神さまのもとへ人を集めることをしてみないか」と誘うのです。限界を思い知らせるのではなくて、次のステージへ引き上げるのです。

   私たちは、自分に見えないもの、理解できないものを存在しないかのように無視して生きています。つまり、自然界の大部分を無視して生きているのです。しかし、実は私たちはその自然界の一部であり、太古の昔から、進化の過程の遠い記憶までも包み込んだ、この世界の構成要素のひとつなのです。たとえば、普段の生活でバクテリアのお世話になっているのだけれど、見えないのでほとんど意識さえしません。そういうことに気づいたなら謙虚にならずにはいられません。春を迎える自然界の様々な営みに目を向けてみましょう。私たちのちっぽけな理屈や感情や思惑などではとても太刀打ちできない命の輝きを目の当たりにすることができます。私たちは、私たちの文化に縛られ、自然界の豊かさのほんの一部を見ているに過ぎないのです。

   私たちも、子どもたちが、成長に合わせて一つずつ力をつけていく姿をそばで見守りながら、次のステップへの筋道をつけるときには、ちょっと応援してあげましょう。それだけで子どもたちは内に秘めた力を発揮していくことができるのです。


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