学校法人
認定こども園 聖愛幼稚園

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Last Update: 20/07/12

聖書のお話・・・カトリック甲府教会司祭の細井保路先生が 新たに「聖書のおはなし」を連載してくださいます。細井先生は カトリック教会の保育所、幼稚園でたくさんの子どもたちに 関わってこられ、絵本作家としてもご活躍されています。



書き下ろし連載153
二つの物差し
ルカ福音書9章46ー48節

細井保路

   弟子たちの間で、自分たちのうちだれがいちばん偉いかという議論が起きた。イエスは彼らの心の内を見抜き、一人の子どもの手を取り、御自分のそばに立たせて、言われた。「わたしの名のためにこの子どもを受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」

   誰が一番偉いかと言うような、はしたない競争はしなくても、私たちは心のなかで、自分の方がましだとか、自分の方が上だというようなことをすぐに考えてしまいます。人の優劣を決めるだけでなく、どちらが得かとか、どちらが自分にとって都合がよいかというようなことも絶えず考えながら行動しています。つまり、自分が基準になっているのです。

   もちろん、自分以外に基準にするものなどないのですから、しっかりと自分の立ち位置から物事を判断していくことは大切なことです。しかし、頼りになるはずの自分も、頂いたいのちを生きているのであり、たくさんの出会いに支えられていることを認めるならば、イエスさまが、「わたしをお遣わしになった方」と言っている、私たちをこの世に送り出してくださった大きな力こそがもう一つの基準だということに気づきます。

   「私」という流動的な物差しと、「私を生かしている大いなる力」という万人に照準を合わせた物差しとの両方を使って、物事を判断することが必要です。そして、その普遍的な物差しを当てて相手を見るときには、いつも相手のいのちの尊厳をしっかりと認めることができるのです。その時には、「私」という物差しは大した意味を持たなくなるのです。

   競争社会を生き抜くという名目で「私」という物差しを振りかざすのではなく、もっと大切なことがあることを、子どもの姿の中に見つけていきましょう。


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書き下ろし連載152
わたしを包む力
ルカ福音書9章28ー36節

細井保路

   イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。 祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服はまっ白に輝いた。 見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリアである。 二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最後について話していた。 ・・・すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。 その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。 弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時誰にも話さなかった。

   三人の弟子達は、一緒に祈っていたときに、イエスさまが光り輝いたと伝えています。正確には、イエスさまが輝いていたのではなく、イエスさまを包む大きな力を感じたのだと思います。皆さんも同じような経験をしたことがないでしょうか。

   目の前の人が少しも力を誇示していないときに、そしてこちらも相手に自分の願望や要求を押しつけていないときに、ふいにその人の存在が大きな温かい力に包まれているのを感じたことはないでしょうか。そうです。幼いわが子の屈託のない笑顔に癒やされたときに、その非力な小さな子どもを、大きな力が支えてくれているのを感じたことがあるはずです。

   本当は、人は誰でも、大きな大きな自然に包まれ、社会に支えられ、壮大な歴史の流れの一番先頭の所に、穏やかで温かい力を身に受けなら立っているのです。

   知らず知らずのうちに、相手より優位に立ちたいと思ってしまっている私たちは、相手を見下すか、過剰な期待をするかのどちらかで、一人ひとりの背後に控える大きな力に感動することを忘れてしまっているのです。

   旧約時代の立役者モーセとエリアが現れたと弟子達が言うのは、イエスさまが壮大な歴史に押し上げられるようにしてそこにいると感じたからなのです。


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書き下ろし連載151
相手を思う幸せ
ルカ福音書9章23−27節

細井保路

   「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。・・・ここに一緒にいる人びとの中には、神の国を見るまでは決して死なない者がいる。」

   「神の国を見るまで死なない」というのは随分大げさな表現に聞こえますが、「生きている間に神の国を見る」と言い換えてみれば、イエスさまの言いたかったことがわかります。天国は死後に用意されているだけではなく、この人生を生きている間にもいつも味わうことができると言っているのです。ただし、神からの恵みに包まれて、いつも穏やかな心で感謝のうちに生きるためには、そういう境地を手に入れるためには、一つ条件があるのです。それが、「自分を捨てなさい」ということなのです。

   世捨て人になれと言っているのではないのです。世捨て人はむしろ自分の強いこだわりを捨てていない人です。「自分を捨てる」とは、自分の利害や権利にこだわったりとらわれたりしないことです。しかも、こだわりを捨てようと頑張ることでもないのです。実はわたしたちは、正しく「自分を捨てる」ということを無意識のうちにやっているのです。譲り合うとか、相手を受けいれるとか、相手のために何かを準備するときに、自分が得したいという気持ちは自然に消えているものです。まさに子育てをしているとき、わが子のために私たちがしていることは、イエスさまが教えている「自分を捨てる」ことなのです。イエスさまは「わたしのために命を失う者は、それを救う」と言われました。大切な相手のことを思って行動していること、それができることが本当に幸せなのだと気づきましょう。

   家族が一緒にいる時間が多い今こそ、この幸せを再確認するよいチャンスです。


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