学校法人
認定こども園 聖愛幼稚園

〒400-0071
山梨県甲府市羽黒町618(地図
TEL 055-253-7788
mail@seiai.net


Last Update: 21/03/25

聖書のお話・・・カトリック甲府教会司祭の細井保路先生が 新たに「聖書のおはなし」を連載してくださいます。細井先生は カトリック教会の保育所、幼稚園でたくさんの子どもたちに 関わってこられ、絵本作家としてもご活躍されています。



書き下ろし連載163
生き生きとした心
ルカ福音書11章39−41節

細井保路

   あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている。 愚かな者たち、外側を造られた神は、内側もお造りになったではないか。 ただ、器の中にある物を人に施せ。 そうすれば、あなたたちにはすべてのものが清くなる。

   「器の外側を清めるのではなくて、器の中にあるものを人に施せ」とイエスさまはおっしゃいます。心の中に沈殿している強欲や悪意を断ち切るには、施すことしかないのだというのです。自分を守ろうとするなら自分の内に悪いものをため込むことになるけれど、自分を与えようとするなら、自分の内からでてくるものはすべて清いものに変わるということです。自分のために何かをため込むことで悪の連鎖が始まり、他者のために何かを与えることで悪の連鎖は断ち切ることが可能になるのです。自分の力や時間を人に与えることは、辛い自己犠牲ととらえることもできますが、すがすがしい喜びとして感じ取ることも可能なのです。「いのち」という頂き物は、あふれ出てこそのいのちだということです。

   子育てで思い悩むとき、家事に時間を奪われてしまうとき、私たちはどうしても、自分のために与えられている時間や可能性が奪われていると感じてしまいがちです。そしてそれをなんとか取り返そうとするなら、そこに不満やいら立ちがわき出て来てしまうのです。でも、わが子のために、家族のために、自分の力を惜しみなく与えることが出来たときには、心はとても明るく軽くなるはずです。

   コロナ対策がすっかり身についた生活で、手洗いやマスクは当たり前になり、つまり、「外側をきれいにする」ことはきちんと出来るようになりました。イエスさまのことばは、「外側」をきれいにすることで守っている私たちの「内側」はちゃんと生き生きとしていますか、と問いかけています。


戻る


書き下ろし連載162
心に灯をともす
ルカ福音書11章33−36節

細井保路

   ともし火をともして、それを穴蔵の中や、升の下に置く者はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。あなたの全身が明るく、少しも暗いところがなければ、ちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らすときのように、全身は輝いている。

   私たちのいのちは、「輝くともし火」なのだとイエスさまは言われます。だからお互いにいのちの輝きを消さない優しさを持ちなさいとと言うのです。そして、灯から連想して、純真なまなざしと邪悪なまなざしのはなしをなさいます。

   「目が澄んでいれば」つまり、純真なまなざしを持っていれば、自分を包む世界の美しさを見ることができるけれど、そのまなざしが濁ってしまうと、私を取り巻く世界も暗いものになってしまうのです。もちろん私たちは、いいことばかりに囲まれて生きているわけではなく、なぜ私がこんなに辛いことを引き受けなければならないのかと恨みごとを言いたくなるようなこともあるかも知れません。しかし、そんなことに負けずに、自分を取り巻く世界を明るく照らすことは必ずできるのです。

   自分の心にともし火をともすことができたら、周囲が明るく見えるだけでなく、周囲を明るくすることができるのです。そして、それができたとき、実は、私が努力して火をともしたのではなく、初めから輝くともし火としていのちを与えられているのだということにも気づくのです。

   神さまがともしてくださった火をくすぶらせて、暗い暗いとつぶやくのではなく、いただいた火をさらにあかあかと燃え立たせるようにしましょう。そして、わが子の内にも輝くともし火が備えられていることを伝えましょう。


戻る


書き下ろし連載161
「やさしさ」の選択
ルカ福音書11章20−23節

細井保路

   わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。強い人が武装して自分の屋敷を守っているときには、その持ち物は安全である。しかし、もっと強い者が襲って来てこの人に勝つと、頼みの武具をすべて奪い取り、分捕り品を分配する。わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。

   聖書の中に出て来る、「神の慈しみ」とか「神の赦し」という言葉が意味しているのは、究極のやさしさや思いやりのことです。そして、それが存在するところでは、神の愛に反するものは退散せざるをません。また、聖書で「悪霊を追い出す」と言っているのは、オカルト的な魔術の話ではなく、イエスさまが、人を癒やし、救おうとして働かれるとき、神の愛に反するものは消えていくということを言っているのです。だから、別の箇所では、「弟子たちにも悪霊を追い出す力を与えた」と書かれているのです。光が灯されれば周りが明るくなるように、やさしさを携えた人が一人いれば、必ずそこに幸せが生まれるのです。悪の力がどれほどしぶとくても、神さまから来る力は必ずそれを凌駕するということを、「もっと強い者が勝つ」というたとえで示しているのです。そしてこの力が働くためには同じ思いを持った人が必要なのです。だからイエスさまは、「わたしと一緒に働いてくれ」と訴えるのです。「わたしと一緒に集めない者は散らしている」という言葉は、「一緒に、この世界にやさしさを広げよう」という呼びかけなのです。

   一見何の力もないように思える「やさしさ」こそが、人を苦しめる様々な悪を退散させる力であることを、私たちは本当は気がついているのだと思います。この「やさしさ」でわが子を包みましょう。その「やさしさ」の大切さをわが子に伝えていきましょう。可能な限り「やさしさ」の方を選択するなら、それは、イエスさまの「味方」につくことになります。


戻る








Copyright © 2021, SEIAI Yochien.
本ページと付随するページの内容の一部または全部について聖愛幼稚園の許諾を得ずに、
いかなる方法においても無断で複写、複製する事は禁じられています。
mail@seiai.net