学校法人
認定こども園 聖愛幼稚園

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Last Update: 18/04/08

聖書のお話・・・カトリック甲府教会司祭の細井保路先生が 新たに「聖書のおはなし」を連載してくださいます。細井先生は カトリック教会の保育所、幼稚園でたくさんの子どもたちに 関わってこられ、絵本作家としてもご活躍されています。



書き下ろし連載126
道しるべ
ルカ福音書4章1−4節

細井保路

   イエスは霊によって荒れ野に導かれ、40日間悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。そこで悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。

   イエスさまは、神さまのことを伝える活動を始める前に、人里離れたところに退いて断食をしながら祈り続けました。この話はそのときのことです。神さまを確かな道しるべとして仰ぎながら生きていこうと思っても、その決心を揺るがすようなできごとや不安はたくさんあります。神さまから離れてしまおうとする思いを「悪魔の誘惑」と表現しているのです。

   ところが、実際は、わたしたちの心は、不安や焦りや闘争心や、さらには恨みのようなものまで抱えこんで、すがすがしさとはほど遠い状態になってしまっているのです。イエスさまは、出会う人々の心の中に、神さまを宿すことのできる静かな場所を探し求めていたのです。そして、見つけると喜んでその人たちを祝福したのです。そのイエスさまが、神殿にやって来ました。神殿は祈るための場所です。つまり、ここに来れば誰でも心の平和を取り戻せる場所であるはずなのです。しかし、その神殿さえも、商売の臭いしかしない場所になってしまっていました。そこでイエスさまは、乱暴な行動に出るのです。人の心にとって一番大切なもの、社会にとって一番大切なもの、それを象徴するはずの大切な場所が尊重されていないことに対して怒りを表されたのでした。

   「生きるために食べ物よりもだいじなものがあるか?」と悪魔が囁きます。それに対してイエスさまは旧約聖書の申命記8章の言葉を引用して答えます。この箇所には、「人はパンだけで生きるのではない」に続いて「神の口から出ることばによって生きる」と書かれています。

   「神の口から出ることば」とは何でしょう。神さまは私たちに何を語っておられるのでしょうか。神さまは何も語らず、何も答えてくださらないように思えます。でも聖書を読んでいくと根源的な「神のことば」が囁くように聞こえてきます。旧約聖書の出エジプト記3章にモーセが神さまの名前を尋ねる場面があります。そこで神さまは名前の代わりに、「私はここにいるよ」とおっしゃるのです。これこそ「神のことば」ではないでしょうか。

   大昔から、人がどこにいても、どんな状況であっても、いつも「私はここにいるよ」とおっしゃる方がいてくださるなら、私たちは、確かな道しるべを持つことになります。大昔の人が星を頼りに航海したように、私たちは「私はここにいるよ」という声を頼りに軌道修正すればよいのです。


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書き下ろし連載125
見落としている世界
マルコ福音書12章10−11節

細井保路

   「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。」

   この言葉は、旧約聖書の「詩編」という祈りの書物の中に出て来る言葉です。「隅の親石」とは、家を支える重要な石という意味です。つまり、人が無価値だと思って無視したものでも、神さまの前ではとても重要な意味を持つということになります。逆さまから言えば、私たちには、すばらしいものが見えていないかも知れないということです。

   私たちは、自分に見えないもの、理解できないものを存在しないかのように無視して生きています。つまり、自然界の大部分を無視して生きているのです。しかし、実は私たちはその自然界の一部であり、太古の昔から、進化の過程の遠い記憶までも包み込んだ、この世界の構成要素のひとつなのです。たとえば、普段の生活でバクテリアのお世話になっているのだけれど、見えないのでほとんど意識さえしません。そういうことに気づいたなら謙虚にならずにはいられません。春を迎える自然界の様々な営みに目を向けてみましょう。私たちのちっぽけな理屈や感情や思惑などではとても太刀打ちできない命の輝きを目の当たりにすることができます。私たちは、私たちの文化に縛られ、自然界の豊かさのほんの一部を見ているに過ぎないのです。

   もちろん、イエスさまが詩編118番の中の句を引き合いにだしたのは、神の愛を語るご自分のメッセージが、時の指導者たちには理解できず、受け入れられず、排斥されてしまうということを語るためでした。しかし、この大昔の詩からもっと広い意味を読み取ることがゆるされると思います。

   大切な価値あるものを見落としているかも知れないこと、普段意識にのぼらない様々なものの営みや、一見無関係に思える人たちとも、どこかで深く結びついていることを、時々思い出してみるのは大事なことだと思います。


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書き下ろし連載124
山が動く
マルコ福音書11章23−26節

細井保路

   「誰でもこの山に向かい、『立ち上がって海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。また、立って祈るとき、誰かに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。」

   祈ったら何でも叶うとイエスさまはおっしゃいます。でも、わたしたちは経験上そんなことはあり得ないと思ってしまいます。イエスさまは「夢はいつか叶う」というような甘ったるいことを言いたかったのではなくて、「祈るということは、本気で今、この瞬間を大切にすることだ」と教えたかったのです。「今」という時を大事にすることが「祈る」ことなのです。

   今を大事にするならば、心配事を抱えて不安でいっぱいの気持ちで過ごすのではなくて、その思いは神さまに捧げ、良い結果を祈るか、あるいは、自分に今できることを始めればよいのです。過去の恨みを引きずっているなら、その思いも神さまに捧げ、少なくとも今は問題にしないようにすればよいのです。

   今を大事にすることは、この先出会うことの悪い面を想像してあれこれ思い悩むのではなくて、良い面、すばらしい面を思い描いてそのすばらしいことに出会ったときにしっかりとそれを受け止められるように気持ちの準備をすることです。

   「本当に必要ならば山は動くのだ」とイエスさまはおっしゃいます。私にとって動いて欲しい「山」は何でしょうか。たとえば本気で社会のある問題を解決したいと願うならば、私が取るべき行動も見えてきます。でもその一歩を踏み出す勇気はなかなか生まれてきません。だれもが勇気を持てば現状は必ず変わります。そこまでの勇気はなかなか持てなくても、今を大切に生きる姿勢を育てていくことは誰にでもできるはずです。


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