学校法人
認定こども園 聖愛幼稚園

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Last Update: 19/04/16

聖書のお話・・・カトリック甲府教会司祭の細井保路先生が 新たに「聖書のおはなし」を連載してくださいます。細井先生は カトリック教会の保育所、幼稚園でたくさんの子どもたちに 関わってこられ、絵本作家としてもご活躍されています。



書き下ろし連載138
与えられたいのち
ルカ福音書7章6−8節

細井保路

百人隊長は友達を使いにやって言わせた。 「主よ、ご足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。 ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。 そして、わたしの僕をいやしてください。わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、 一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。」

   人望のある軍人が、部下の病気を治してほしいと、人を介してイエスさまに頼むという話です。 直接頭を下げに来ないというのは、一見横柄な態度のようにも思えますが、実は遠慮からそうしているのだということが彼の言葉からわかります。 そしてさらに、自分に与えられている権限のゆえに、自分の言葉が部下の運命を決めてしまうという状況を度々経験しているので、「言葉の重さ」ということもわきまえているのです。 この軍人は、イエスさまが神から力をいただいている方だと信じたのです。 だから、イエスさまからひと言「治れ」という言葉をいただければその通りになると信じたのです。 そして彼の部下は本当に回復したと聖書には書かれています。

   これは単なる奇跡の話として読んでしまいがちです。 しかし、大事なのは、奇跡が起きるということではなく、人は神さまから力をいただいていることに気づくことができるという点なのです。 私のいのち、私の生活、私の人生というものは、神さまからいただいたものだと感じることができたなら、つまり、いのちは「与えられたもの」だということを実感できたなら、「与える」という出来事の中でこそいのちが一番輝くことに気づくはずです。 私という存在は与えられてここにあり、相手に何かを与えるときに輝きを放つのです。 そして、この私が与えられた存在であるなら、自分のもの守ることに汲々とする必要さえなくなり、おおらかに与える生き方ができるようになるはずです。


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書き下ろし連載137
温かい言葉を
ルカ福音書6章43−45節

細井保路

   悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は心からあふれ出ることを語るのである。

   うっかり人を傷つけるような言葉を発してしまうことは誰にもあります。わたしたちは、「そんなつもりではなかった」と言い訳をしますが、本当に相手のことを大切に思っていたなら、うっかり暴言を吐くというようなことは起こらないでしょう。まさに、「人の口は心からあふれ出ることを語る」のです。日本語にも、「言霊」という美しい単語があります。

   勘違いや、言い間違いはよくあることですから、自分の言葉にすべて責任を持てというのは厳しすぎると思いますが、いつも心を込めて語るという習慣を持つことができたならば素晴らしいことです。重要な仕事の場面とか、大切な人に話さなければならない時などには、緊張して注意深く話しますが、反面、わが子に声をかける時などはどうしてもいい加減になってしまいます。それは当たり前だと思ってしまいがちですが、相手によって重さが変わってしまうような言葉は、そもそも、心の深いところから出て来る言葉ではないのです。言葉を大切にするということは、つまり、相手によって言葉を使い分けるということをやめてみることです。

   もちろん、子どもにも難しい言葉で対応してよいという意味ではありません。むしろ、子どもを尊重するならば、子どもの理解力に合わせて、心を込めて語りかけるべきです。「表現」を変えないのではなくて、「心のこもった姿勢」を変えないことが大切です。

   上品でもトゲのある言葉というのがあります。ぶっきらぼうでも温かい言葉もあります。わが子に語りかける自分の言葉を少し意識してみましょう。


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書き下ろし連載136
世界を美しく見る
ルカ福音書6章41−42節

細井保路

   あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。 自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、「さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください」と、どうして言えるだろうか。 偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。

   目に大きな丸太が挟まった状態で、人を批判している人物を想像してみましょう。 ギャグ漫画のような情景です。 イエスさまは、私たちが時として、そんな姿になっていることに気づかせようとされたのです。 人の間違いを指摘したり、批判したり、相手を責めたりするときに、もし目の前に大きな障害物があって、現状をなにも把握できないでいるのだとしたら、批判は見当違いなものになってしまいます。

   もちろん時には、勇気をもって間違いをたださなければならないこともあります。 しかし、多くの場合、相手を裁く前に、私は現実をちゃんとつかんでいるのか確かめてみる必要があります。

   私にはこのことの全体像が見えているのか? 私は相手の側の理由を考えたことがあるか? 私は自分の感情だけで判断していないか?などと考えてみれば、批判や怒りが、本当はどうでもいい小さなことであると気がつく場合もあるのです。 「まず自分の目から丸太を取り除け」というイエスさまの言葉は、言いかえれば、「まず自分が抱えている荷物をおろしてみよう」「まず自分がとらわれている感情から抜け出してみよう」というようなことなのです。

   自分の目の前にうっとうしいものを抱えていると、周りの世界も、相手の態度もすべてうっとうしく見えてくるけれど、目の前をすっきりさせると、ずべてがもっとすっきりと美しく見えてくるといのは、本当だと思います。


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