学校法人
認定こども園 聖愛幼稚園

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Last Update: 24/05/12

聖書のお話・・・カトリック甲府教会司祭の細井保路先生が 新たに「聖書のおはなし」を連載してくださいます。細井先生は カトリック教会の保育所、幼稚園でたくさんの子どもたちに 関わってこられ、絵本作家としてもご活躍されています。



書き下ろし連載199
人のおかげで今がある
マタイ福音書4章1〜4

細井保路

   イエスは、40日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。 すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。 「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。 「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」

   救いとは、どんな罪もゆるされるということだとイエスさまは言われました。言いかえれば、どんな人も神さまの前では完全ではありえず、ゆるされなければならない存在だということです。それを認めることが、神さまを信じ受け入れることなのです。神さまが私たちをゆるしてくださっていることを受け入れることなのです。そのことのしるしとして、イエスさまの死があり、そのことの保証として復活というゴールが示されたのです。

   イエスさまは、別の表現でもこのことを語られます。マルコ福音書の3章にこんな言葉があります。「人の子らが犯す罪やどんな冒涜(ぼうとく)の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」

   聖霊とは、私たちの内で自由に働かれる神さまのことです。私たちが不安や恐れから解放されるためには、怒りや後悔から解放されるためには、神さまのゆるしを信じ受け入れることが必要なのです。しかし私たちは、自分のことはゆるしてもらいたいけれど、人のことはなかなかゆるせないばかりか、平気で責めたり裁いたり憎んだりするのです。それは「神の赦し」を受け入れていないことにほかなりません。だからイエスさまは弟子たちに、「約束された、高い所からの力に覆われる」のを待つようにと言われたのです。聖霊に満たされること、神のゆるしを確かに受けいれることが何よりも大切だという意味です。


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書き下ろし連載198
愛のメッセージ
マタイ福音書3章16〜17

細井保路

   イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。 そのとき、天がイエスに向かって開いた。 イエスは、神の霊が鳩のようにご自分の上に降ってくるのをご覧になった。 そのとき、「これは私の愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

   イエスさまは、活動を始めるにあたり、ヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けられたと聖書は伝えます。 洗礼とは、水をかぶることですから、贅沢な身なりのままではできませんし、大切なものを抱えたままでもできません。 つまり、自分のこだわりを捨てることが求められているのです。 こだわりを捨てたままでは、空っぽの人間です。大切なことは、こだわりや勘違いを手放した後、その空白を何で埋めるかということです。 結論からいうと、空っぽの心は神さまの愛で満たされるべきなのです。

   神さまからすばらし恵みをいただいていると気づくと、わたしたちはとたんに思い違いをして、だったら人の分まで恵みをいただいてしまおうと思うのです。 人は幸せになるように生まれていると気づくと、またまた思い違いをして、だったら他人はどうでもいいから私は幸せになろうと思うのです。 神さまは人間に神のようないのちをくださったと言われると、だったらもはや神はいらないという思い違いをしてしまうのです。

   間違ったこだわりや何かにとらわれた心を手放したとたん、私たちは本来の神さまのいのちで満たされるはずなのです。 謙虚にヨハネの前に膝をかがめたイエスさまに「これはわたしの愛する子」という神さまからのメッセージが聞こえたのです。 「お前を愛している」という神さまのメッセージは、私たち一人ひとりにも注がれているのです。 でも変な思い違いやこだわりのために、このメッセージが響いてこないのです。

   わが子にこのメッセージがしっかり届くために、何をすべきかを考えていきましょう。


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書き下ろし連載197
春の花のように
ルカ福音書24章50〜53

細井保路

   イエスは、そこから弟子たちをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。

   イエスさまは、人々の悪意や憎しみの犠牲となり殺されてしまったのに、それは虚しい敗北ではなかったと弟子たちは悟ります。復活なさったイエスさまが、神のいのちに満たされるゴールを示してくださったからです。彼らの驚きが確信に変わったとき、イエスさまはもう姿を現さなくなります。それを「天に上げられた」と表現しています。

   神さまが共にいてくださることを示し続けたイエスさまの登場によって、神さまの働きで満たされるところ、つまり私たちを幸せにする「よいもの」が満ちているところでは、それを妨げるもの、それに反するものは退散するしかないことを弟子たちは実感しました。私たちがなかなか克服できない驕りや偏見、不安や恐れや怒りや憎しみなども、私たちの心が「よいもの」で満たされるなら、次第に消えていくはずです。ではなぜイエスさまは人の悪意によって殺されてしまったのかという疑問がすぐに湧いて来ます。それは、神さまがこの世界を内側からよいもので満たそうとされているからです。悪の力に対して力で対処していくだけなら、悪の連鎖を断ち切ることはできません。もう一方で、内側から世界をよいもので満たしていく努力をやめてはならないのです。そのために自分を無にすることは、みじめなことでも、負けを認めることでもなく、むしろ限りなく大きな神さまの愛とゆるしでこの世界を内側から満たすことだと、イエスさまは身をもって示されたのです。

   次々に咲く春の花があたりを春の気配で満たしていくように、私たちも、自分の心の内や家庭の中を、神さまの望まれるやさしさで満たしていきましょう。


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