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赤鬼からの手紙(2021年9月号)



『 秋 』

かこ さとし 著

講談社

   猛暑と長雨の夏でした。長い雨は多くの被害をもたらし、今も行方が分からないままの人や不自由な生活を余儀なくされている方々がいます。災害が多い国と言われて久しい日本ですが、準備を心がけていても、予想を超えることが増えてきました。それでも、命を守るのは人の力の結集です。一日も早く、日常が戻ることを願っています。 こうしながらも、季節は巡り、秋がやって来ます。好きな季節は?と聞かれて、「秋」と答える人もたくさんいることでしょう。その大好きな「秋」を思いながら描かれた絵本です。

トウモロコシの葉が風にゆれ、ヒガンバナの行列ができています。秋になりました。
私は秋が大好きです。雨上がりの朝、赤トンボが水たまりにおしりをチョイチョイつけたりしています。 うろこ雲が遠くまで続いていて、ノギクやアカマンマやらが咲き乱れています。 そして、もうひとつ秋がすきなわけは――――おいしい果物がたくさん食べられるからです。 イチジクやブドウ、ナシやザクロやリンゴ、クリやカキ‥‥‥どっさりなるときです。 秋は本当にいい季節です。ところが、そのすてきな秋をとてもきらいになったときがありました。
昭和19年のことでした。わたしは18歳の高校2年生。日本はアメリカと戦争をしていました。 私たち高校生は、兵器を作る工場にとまりこんで、戦車の歯車や部品を昼夜交代でつくっていました。 学校で先生に教えてもらうこともなく、本を読んだり勉強したりできない毎日でした。 いろんなものがなくなっていく中で、もっともきびしかったのは食料です。 兵隊でない人や子どもには、米やパン、野菜、果物などのわりあてがなくなり、どこの家もカボチャをつくりました。 「欲しがりません 勝つまでは」「何がなんでもカボチャを作れ」
そんなさなか、私は盲腸炎になり、工場付属の病院でチョビひげの先生とのっぽでおでこの先生におなかの手術をしてもらいました。 その後、病室でお世話をしてくれたのは関西弁を話すこわいおばさんでした。 おばさんから、おでこの先生に召集令状がきたことを聞きました。 「先生、とうとう戦争にゆかれるのですね。」「ああ、きちゃったよ。もう会えんだろうから、しっかりやれよ。」 私は、「何がなんでもの南瓜も食わで征くか君」こんな俳句をおくりました。
―なにがなんでも、カボチャを作ってそれを食べて、なんとか生きよう。  おでこ先生、どうかいつまでもお元気でいてください―
病院にいても、戦争のさなかでも、秋はちゃんとやって来ます。 青く晴れた恐ろしい秋の日のことでした。 歩けるようになった私は、その日もやってきた敵の飛行機を地下壕のかげからこわごわ見あげていました。 4すじの白い飛行機雲をひいて飛んでいた爆撃機。 その横で白い煙が出たと思うと、近づいていた日本の戦闘機が煙りをふいて落ちてゆきました。 すると―日本の飛行機から豆つぶほどの人影が飛び出しました。恐ろしい勢いで、ぐんぐん落ちてゆくのです。 「落下傘が開かないんだ。落ちる、落ちる、落ちてしまう!」頭を下にした飛行士の体は、みるみる地上に近づき、吸い込まれるように、家々のかげに消えました。 そこにいた人たちは、みんなだまったまま手を合わせ、深いため息をつきました。 翌朝の新聞に「壮烈!開かぬ落下傘。皇居に最後の敬礼をしつつ、従容としてとして散る。」 私はそれを見て、くやしい、悲しい、殴りつけたい気持ちでいらいらしました。 そして、もうひとつの悲しいことがありました。 それは、おでこ先生が戦死したという知らせでした。
おばさんの一人息子、開かぬ落下傘の飛行士、知り合いのお父さん、友だちのお兄さん、そして―そして―‥‥‥ 戦争はどうして、いい人たちを次々殺してゆくのだろう。
ああ、こんな戦争なんか、一にもはやく終わったほうがいい、青い空や澄んだ秋晴れは、戦争のためにあるんじゃないんだ。 一日も早く、平和な春が来てほしい、私は切に願いました。
翌年、日本は負けて戦争は終わりました。 それからくる年ごとに、さまざまな秋が巡ってきました。 ただひとつ、戦争のない秋の美しさが続きました。

   〜かこさとし、幻の作品、発見!かこさんがいちばん憎んでいた「戦争」のおはなし〜 構想から68年、かこさんのオリジナル作品、・・・子どもの未来を考えるすべての皆さんに、天国のかこさんからの贈り物です!〜と帯には書かれています。

   2018年5月、絵本作家の加戸里子さんが天に召されました。 その後長女の万理さんが、加古さんの古い作品を整理しているときに「秋」という題名の手書き紙芝居を見つけたそうです。 ”1957年10月13日画”とあり、絵本として出版するときの編集注意も見つかり、やっと形にすることが出来たとのことです。 30年がかりで世に出すべく、加古さんは準備なさっていた、それを万理さんが受け継ぎ、私たちの手元にやっと届きました。 巻末には、そのいきさつがくわしく書かれています。

   加古さんは、かつて軍国少年だった自分を恥じて悔い、子どもたちには過ちを繰り返させまいと絵本を描き始めました。 それが絵本作家になるきっかけでした。 アジア諸国を訪れるたびに、飛行兵を志した若い日を明かし、もしも軍人になっていたら何をしていたかわからないと、謝罪をしていたそうです。 そんな強い戦争反対の思いから、戦争絵本のプランを何回も立てては、何回もボツにしていた、それだけ難しいことだったのでしょう。 でもこうして絵本として形になり、加古さんの長年の想いは娘さんによって繋がりました。

   自分たちの住む周りをゆっくりと眺めてみると、知らない間に景色も変わっているのかもしれません。 景色だけでなくて人々の様子も変わってきているのかもしれません。 そして、失われた何かがあることにさえも、気づかないままなのかもしれません。

   今度は、私たちが繋げていく番です。ちゃんと伝え続けていきますね、かこさん。

(赤鬼こと山ア祐美子)


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