あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。
あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。
そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。
「塩」とは、人が本来持っている、「相手を生かす力」のことです。
自分も、そしてどんな人も、その力を持っていることに気づきなさいと言っているのです。
「光」についても同じです。誰もが「相手を照らす光」であると言うのです。
一人の命がそこにあるならば、それはおのずとあたりを照らすのです。
無理やりあるべき姿に教育するなどということは、「ともし火をともして升の下に置く」ようなものだと言えます。
輝いているともし火を吹き消すことなどはもってのほかです。
すでに備わっている力、おのずと育っていく命を尊重することが大切です。
「世を照らす光になりなさい」と子どもに教えるのではなくて、「あなたは家族を元気づけてくれる明るい光だ」ということを認めてあげましょう。
子どもに初めから備わっている「光」が輝き続けるためには、その灯がともっていることを喜び、感謝する人が必要なのです。
イエスさまは、「山の上の街の明かり」が見える安心感をイメージしていたようです。
どんどん育っていく子どもを中心にした社会は、本来、喜びと感謝にあふれているものです。
大人の都合ではなくて、子どもの中で今育っているものを見つけるつもりで寄り添ってみると、それはそれは楽しい、輝かしい子どもの姿が見えて来るはずです。
夏休みに、少し心に余裕をもって、子どもたちの中の「光」をみつけてみましょう。
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