イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。
そのとき、天がイエスに向かって開いた。
イエスは、神の霊が鳩のようにご自分の上に降ってくるのをご覧になった。
そのとき、「これは私の愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。
イエスさまは、活動を始めるにあたり、ヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けられたと聖書は伝えます。
洗礼とは、水をかぶることですから、贅沢な身なりのままではできませんし、大切なものを抱えたままでもできません。
つまり、自分のこだわりを捨てることが求められているのです。
こだわりを捨てたままでは、空っぽの人間です。大切なことは、こだわりや勘違いを手放した後、その空白を何で埋めるかということです。
結論からいうと、空っぽの心は神さまの愛で満たされるべきなのです。
神さまからすばらし恵みをいただいていると気づくと、わたしたちはとたんに思い違いをして、だったら人の分まで恵みをいただいてしまおうと思うのです。
人は幸せになるように生まれていると気づくと、またまた思い違いをして、だったら他人はどうでもいいから私は幸せになろうと思うのです。
神さまは人間に神のようないのちをくださったと言われると、だったらもはや神はいらないという思い違いをしてしまうのです。
間違ったこだわりや何かにとらわれた心を手放したとたん、私たちは本来の神さまのいのちで満たされるはずなのです。
謙虚にヨハネの前に膝をかがめたイエスさまに「これはわたしの愛する子」という神さまからのメッセージが聞こえたのです。
「お前を愛している」という神さまのメッセージは、私たち一人ひとりにも注がれているのです。
でも変な思い違いやこだわりのために、このメッセージが響いてこないのです。
わが子にこのメッセージがしっかり届くために、何をすべきかを考えていきましょう。
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