イエスは、そこから弟子たちをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。
イエスさまは、人々の悪意や憎しみの犠牲となり殺されてしまったのに、それは虚しい敗北ではなかったと弟子たちは悟ります。復活なさったイエスさまが、神のいのちに満たされるゴールを示してくださったからです。彼らの驚きが確信に変わったとき、イエスさまはもう姿を現さなくなります。それを「天に上げられた」と表現しています。
神さまが共にいてくださることを示し続けたイエスさまの登場によって、神さまの働きで満たされるところ、つまり私たちを幸せにする「よいもの」が満ちているところでは、それを妨げるもの、それに反するものは退散するしかないことを弟子たちは実感しました。私たちがなかなか克服できない驕りや偏見、不安や恐れや怒りや憎しみなども、私たちの心が「よいもの」で満たされるなら、次第に消えていくはずです。ではなぜイエスさまは人の悪意によって殺されてしまったのかという疑問がすぐに湧いて来ます。それは、神さまがこの世界を内側からよいもので満たそうとされているからです。悪の力に対して力で対処していくだけなら、悪の連鎖を断ち切ることはできません。もう一方で、内側から世界をよいもので満たしていく努力をやめてはならないのです。そのために自分を無にすることは、みじめなことでも、負けを認めることでもなく、むしろ限りなく大きな神さまの愛とゆるしでこの世界を内側から満たすことだと、イエスさまは身をもって示されたのです。
次々に咲く春の花があたりを春の気配で満たしていくように、私たちも、自分の心の内や家庭の中を、神さまの望まれるやさしさで満たしていきましょう。
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