どんな召し使いも2人の主人に仕えることはできない。
一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。
あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。
この言葉は、言い方を変えれば、「愛と金とどちらが大事か」ということになります。誰もが、「もちろん愛です」と答えたいのですが、同時に「お金も大切だ」と思ってしまいます。
この世界が、経済活動で回っている限り、お金のことを無視して生活することはできません。
そのために、「何よりも愛が大切だ」とわかっていながらも、頭の片隅ではいつも計算をしてしまうのです。
イエスさまは、そのことを否定しているのではなくて、「愛が大事だとわかってはいるけれど・・・」というときの、「けれど」、つまり「言い訳」を放置しておくと、結局、愛よりも金が大事な生き方になってしまうことを警告しているのです。
「愛とお金」という対比を、もうひとひねりして、「神のはからいと私の思惑」と言いかえてみましょう。
「神のはからいに任せたい『けれど』やはり自分の計画を実現したい」と思うことは、もちろん悪いことではないのですが、そうやって生活していくと、いずれは、「こんなはずではなかったのに・・・」という状況に立ち至ります。
「こんなはずではなかった」と思ったときに、私は何を大事にし、何を優先してきたか、と立ち止まって考えることが重要なのです。
他者への思いやりよりも、自分のプランの実現を優先していなかったか、相手に対する愛に色々条件をつけてしまっていなかったか、相手を大切にできないときに言い訳ばかりしていなかったか、と気づくことができればよいのです。
「愛」と「お金」と、私たちはどちらも手放さずに生きていかなければなりません。
でも、ふと立ち止まる機会があるならば、優先しなければならないのは「愛」のほうだ、と思い出すことができればよいのです。
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