ある金持ちに一人の管理人がいた。
この男が主人の財産を無駄使いしていると、告げ口をする者があった。
そこで主人は彼を呼びつけて言った。
「お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。」
管理人は考えた。
「・・・そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。」
そこで、管理人は主人に借りのある者を一人ひとり呼んで、まず最初の人に、「私の主人にいくら借りがあるのか」と言った。
「油100バトス」と言うと、管理人は言った。
「これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、50バトスと書き直しなさい。」
・・・主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。
狭い常識の世界で帳尻が合ってしまわないような、神の愛の大きさを語るために、イエスさまのたとえ話はどれも少し変わっています。
なかでも、このたとえ話は特に変です。財産管理の責任を果たさないばかりか、解雇されるとわかると、勝手に人の借金を帳消しにしてやって恩を売り、自分を迎え入れてくれる仲間を作るのです。
ずる賢く生きている人でも、そのデタラメな自分を許容し、受け入れてくれる人の大切さを知っている、とイエスさまはおっしゃっているのです。
そして、受け入れられることの大切さを知っているひとは、神さまが私たちの弱さや過ちを帳消しにして救い上げてくださるということに気づくあと一歩のところにいるのです。
なぜイエスさまがそんな話をなさるかというと、正しく生きるということを目指す人や、自立してまっとうに生きていると自負している人の方が、実は神さまから遠い、神さまに出会えないと言いたいからなのです。
イエスさまはそういう人たちの思い込みと戦っていたと言ってもいいのです。
人間は自己完結することはありえないのです。
いつも誰かに助けられ、ゆるされ、救われて生きているのだと気づかなくてはいけません。
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