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認定こども園 聖愛幼稚園

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書き下ろし連載175
放蕩息子の話
ルカ福音書15章11〜20

細井保路

   ある人に息子が二人いた。・・・父親は財産を二人に分けてやった。・・・下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。 何もかも使い果たしたとき・・・彼は我に返って言った。・・・「ここをたち、父のところに行って言おう。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇人の一人にしてください』と。」 彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、あわれに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。

   前回、聖書に出て来る「悔い改める」という言葉の真意は、自らが反省して詫びることである以前に、神さまの愛に出会うことなのだということを書きました。「放蕩息子の譬え」として知られているこのお話は、そのことを印象深く語っています。そして、息子を迎え入れた父親は、「死んでいた息子が生き返ったようなものだ」と言って祝宴を催します。

   愚かしくさえ思える無条件の、無償の愛が描かれています。神さまの愛は、私たちが持っているような、料簡の狭いちっぽけな愛ではないということです。「神さまとは何か?」という問いに対しては、それが一つの答えですけれど、別の問いも考えられます。「本当幸せとは何か?」という問いの答えとしてこのたとえ話を読んでみましょう。答えは、「本気で愛してくれる人がいること」です。「過去のことや、さまざまな解決すべき事柄はさておき、今私の腕の中にいるあなたが、愛おしい」と言ってくれる存在に出会うことです。私たちは、わが子に対して、そういう存在になれているでしょうか。神さまではないのだから、完璧である必要はありません。でも、親だからこそ、このたとえ話の父親が持っているような無償の愛をわが子に伝えることが出来るのです。


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