ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。
そこで園丁に言った。
「もう3年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。」
園丁は答えた。
「ご主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。」
あやふやなたとえ話です。「ぶどう園の主人」が誰を指しているのか、「園丁」が誰をさしているのか、色々な解釈が成り立ちます。
「いちじくの木」である私たちは、神さまのお望みにはまるでかなっていないけれど、それでも神さまはあわれみをかけてくだるというたとえだと言うこともできます。
でもむしろ、このたとえ話は、「あなたならこのいちじくの木をどう見るか」という問いかけとして受け止めることが求められているのだと思います。
さらに言うならば、わたしは、自分の望み通りにならない相手に対して、たとえの中の主人のように、「無駄だ、邪魔だ」と言っていないでしょうか。
心の中でそう思ったり、態度に表したりしていないでしょうか。
誰かが人のことを役に立たない場所ふさぎのいちじくの木のように扱っていたら、とてもいやな気持になるはずです。
でも、私の心の中にもそんな感情がふっと湧くことはあるのです。
自分自身はたくさんのやさしさや善意に助けられているのに、ふと、他人には冷酷な感情を持ってしまうことがありうるのです。
根本のところでは本当に愛しているはずのわが子に対してでさえ、あまりにも思い通りに動いてくれないときには、「もうずっと我慢してやっているのに」という感情が顔を出してくるものです。
そんな時に、このお話を思い出しましょう。
そして心の中で、いちじくの木をめぐる会話を一人二役で演じてみましょう。
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