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認定こども園 聖愛幼稚園

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書き下ろし連載167
判断の基準
ルカ福音書12章57―59

細井保路

   あなたがたは、何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか。 あなたを訴える人と一緒に役人のところに行くときには、途中でその人と仲直りするように努めなさい。 さもないと、その人はあなたを裁判官のもとに連れて行き、裁判官は看守に引き渡し、看守は牢に投げ込む。 言っておくが、最後の1レプトンを返すまで、決してそこから出ることはできない。

   「掟」つまりルールや慣習にとらわれると、本当に大事にしなければならないことが見えなくなったり、切り捨てたりしてしまいがちです。 実際、私たちも簡単にその状態に陥ります。自分の判断を貫くより、すでに決まっているルールに合わせる方が簡単だからです。 イエスさまは、「何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか」と言われました。 「自分で」というのは、「自分勝手に」という意味ではありません。掟さえ守っていれば、ルール違反さえしていなければ自分は守られている、という利己的な心ではいけないとおっしゃっているのです。 ルールに保護されて利己的な生き方を続けていると、次第に、人を傷つけても感じなくなり、社会が全体主義的になっても平気になってしまいます。

   イエスさまの言う「自分で判断せよ」という意味は、「ルール任せでなく、自分で考えなさい」ということです。 ルールはもちろんとても大事なのだけれど、人を思いやる心がルールより優先する場合もあるのです。

   訴える人とはやく仲直りせよと言われていますが、これは「たとえ」であることを読み取らなくてはいけません。 「裁判官」というのはつまり、私が頼みにしている「ルール」のことです。 そして、自分の真心を捨ててルールに頼るならば、結局私自身が自分で牢獄を作りその中に閉じ込められてしまうというのです。 利己心から脱却せずにルールに頼るだけだと、最終的には私自身が人の思いやりに背を向けることになるのです。


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