あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。
そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。
今から後、一つの家に5人いるならば、3人は2人と、2人は3人と対立して分かれるからである。
父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、対立して分かれる。
イエスさまは、別のところで、「平和をもたらす人は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」(マタイ福音書5章)と言われ、また、「私は平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。」(ヨハネ福音書14章)とも言われています。真の平和がこの世界に訪れること、また、わたしたちの心が真の平和で満たされることこそが、イエスさまの悲願であったはずなのです。それなのに、その思いとは裏腹に、「平和ではなく、分裂をもたらすために来た」と言われるのです。何故でしょうか?
お互いが心から相手の幸せを願うことができたら、そのとき初めてこの世界に平和が訪れるのです。しかし、現実のわたしたちは、少しでも相手より優位に立つことで、かろうじて心のバランスを取っていたり、人の幸せは願えないままで自分だけ平穏な生活をしたいと望んだりしているのです。その中途半端な状態から抜け出さない限り、真の平和の実現からは程遠いところにいることになります。
イエスさまは、わたしたちの心の危うさに気づき、それを乗り越えようと誘われるのです。でも、その生き方は、何かをごまかしながら今の平和を維持していこうとする人たちとは対立してしまうのです。新たな価値観にたどり着くためには、摩擦はつきものだということです。
分裂を引き起こしてでも真の平和の実現に突き進むのではなく、まず、私の心の中で、古い価値観のわたしを乗り越えてより豊かなわたしを目指すようにと誘われているのだと思います。
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