ともし火をともして、それを器で覆い隠したり、寝台の下に置いたりする人はいない。
入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。
隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない。
だから、どう聞くべきかに注意しなさい。
持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる。
イエスさまがこのたとえで語られる「ともし火」とは何でしょうか。
神さまが一人ひとりに与えてくださった「いのち」のことだと考えることができます。
与えられたいのちは、輝くためにあるのです。
覆い隠したり、まして消したりしてはならないはずです。
さらに、相手を照らすことでその本来の輝きを増すことになるのです。
現実の子どもたちのいのちは、信頼できる相手や、安心できる環境に支えられて本来の輝きを大きく育てていくものです。
でもその輝くともし火をよろこんで受け止める相手がいなければ、子どもたちは心を閉ざしてしまいます。
一旦そうなると、自分の外の現実とかかわることが不安になり、自分の世界に閉じこもることになります。
まさにともし火が覆い隠された状態になってしまいます。
他者や社会や世界との関係を遮断して孤立したのでは、人間として豊かに成長することは難しくなります。
「持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる。」という一見残酷に聞こえるこの言葉はそのことを警告しているのです。
思い切って心を開いて、自分の狭い世界から抜け出せば、必ず本来の人生の豊かさを味わうことができるはずですが、そのためには、周囲の理解や助けや支えがどうしても必要なのです。
「持っていない」と感じている当人だけに問題があるのではなく、そう感じてしまうということは、周囲が、つまり私たちが、本気でその人のいのちの輝きを育てようとしていないからなのだということに気づかなければなりません。
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