種を蒔く人が種蒔きに出ていった。
蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。
ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。
ほかの種は茨に中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。
また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。
このたとえに出て来る「種」とは「神のことば」のことだと聖書には説明が書かれています。キリスト教では、イエスさまこそが「神のことば」つまり神からのメッセージだと考えます。
「誰もが神から愛されている」「神はすべての人が救われること、つまり幸せになることを望んでおられる」ということを伝えたからです。
私たちは、辛い経験をすると、このメッセージが聞こえなくなってしまいがちですが、実は太古の昔から、人の心の奥底で、この優しいメッセージは鳴り響いているはずなのです。
誰もが、神の愛に包まれて生きていると感じられたなら、恵みをいっぱいいただいて生きていると感じられたなら、どんなに幸せなことでしょうか。
そしてそれは不可能ではないのです。
なぜなら、神の恵みは、神の愛のメッセージは、すべての人に例外なく降り注いでいるからです。
このたとえが伝えたいのはそのことなのです。
例外なく与えられている恵みが届かないことがあるとするならば、それは、その本人にだけ問題があるのではなく、社会そのものにも問題があるのです。
人の優しさや愛に心を閉ざす人がいるなら、その原因はこの社会にそしてその成員である私たちにもあるのです。
だからその原因を取り除いていかなければなりません。
一人ひとりが優しさを大切にしてそれを伝えていこうと決心するならば、みんなが幸せになるという理想に少しずつ近づけるのです。
「種は百倍にもなる」のです。
このイメージを大切にして、優しさを子どもたち伝えていきましょう。
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