イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。
その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。
主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。
そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。
イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。
すると、死人は起き上がってものを言い始めた。
イエスは息子をその母親にお返しになった。
聖書には、イエスさまが病人を癒やされる話が何度もでてきます。
イエスさまとの出会いには、人が身心に感じている緊張や束縛を解いてくれる力があったというふうに考えることもできます。
また、病からの解放は、絶望している人に神に愛されているという実感を取り戻させるためだったとも言えます。
そんな奇跡は信じられないという人でも、硬直した身心が解きほぐされるだけで、大きな気持ちの変化が起こることは想像できると思います。
しかし、この話は、病気の回復ではなく、死んだ子どもが生き返るというさらに荒唐無稽な話なのです。
愛する対象を奪われた人の喪失感と悲しみに出会い、イエスさまはそれを見過ごすことができなかったのです。
この奇跡を信じるかどうかは、大した問題ではありません。
イエスさまの心の動きに着目すべきエピソードです。
誰にも慰めることのできない深い悲しみに触れ、思わず「もう泣くな」と声をかけたイエスさまは、人が抱える喪失感に共感できる方だったのです。
不慮の事故で大切なものを失った人、最愛の人を病で失った人、他人の悪意で財産や信用を失った人、様々な形で深い喪失感と悲しみを抱えている人がいます。
その一方で、それを知っていながら心ない言葉をかける人もいます。
私たちは、せめて、悲しむ人に寄り添う心を持っていたいものです。
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