百人隊長は友達を使いにやって言わせた。
「主よ、ご足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。
ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。
そして、わたしの僕をいやしてください。わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、
一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。」
人望のある軍人が、部下の病気を治してほしいと、人を介してイエスさまに頼むという話です。
直接頭を下げに来ないというのは、一見横柄な態度のようにも思えますが、実は遠慮からそうしているのだということが彼の言葉からわかります。
そしてさらに、自分に与えられている権限のゆえに、自分の言葉が部下の運命を決めてしまうという状況を度々経験しているので、「言葉の重さ」ということもわきまえているのです。
この軍人は、イエスさまが神から力をいただいている方だと信じたのです。
だから、イエスさまからひと言「治れ」という言葉をいただければその通りになると信じたのです。
そして彼の部下は本当に回復したと聖書には書かれています。
これは単なる奇跡の話として読んでしまいがちです。
しかし、大事なのは、奇跡が起きるということではなく、人は神さまから力をいただいていることに気づくことができるという点なのです。
私のいのち、私の生活、私の人生というものは、神さまからいただいたものだと感じることができたなら、つまり、いのちは「与えられたもの」だということを実感できたなら、「与える」という出来事の中でこそいのちが一番輝くことに気づくはずです。
私という存在は与えられてここにあり、相手に何かを与えるときに輝きを放つのです。
そして、この私が与えられた存在であるなら、自分のもの守ることに汲々とする必要さえなくなり、おおらかに与える生き方ができるようになるはずです。
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