敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。
これは、聖書の言葉の中でも、最も現実離れした言葉かも知れません、
仮に私を侮辱する人のために祈ることができたとしても、おそらくその相手に対する軽蔑の感情をまったく抜きに祈ることはむずかしいだろうと思います。
有名な「右の頬を打たれたら左の頬も出せ」ということばも、卑屈な感情にならずに実践することなど不可能に違いありません。
何かを奪われたり、だまし取られたりしたら、泣き寝入りすることはあったとしても、寛大にゆるすことなど到底できません。
ではなぜイエスさまは、こんな理不尽なことを語られたのでしょうか。
それは、本来私たちには、これほどスケールの大きなゆるす心が与えられていることに気づかせるためなのです。
悪は裁かれるべきであり、損害は償われるべきであるという当たり前の中で生きているうちに、私たちの心はどんどん狭いちっぽけなものになっていってしまうのです。
相手を裁くことの応酬が繰り返され、人の心ばかりか、社会そのものが殺伐としていくばかりです。
それが当たり前になってしまうと、寛大な心をイメージすることさえできなくなってしまいます。
イエスさまの言葉を、実践することなど無理と遠ざけてしまう前に、そんなとてつもない寛大さを忘れないようにしようと思うだけでいいのです。
そして、その理想に近づく第一歩は、「人にしてもらいたいと思うことを、人にもする」ということなのです。
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