肌に刺すような暑さが急にやってきました。
青い空を突き抜けて沸き立つ入道雲が日に日に大きくなっています。
庭先のひまわりもぐんぐん伸びています。
夏休みに入った子供たちには、1年で一番楽しみな季節到来ですね。
毎日プールに行ったり、虫取り網をもって裏山を歩き回ったり、やりたいことが山ほどあります。
そんな風に過ごす子供たちの背の高さが一夏で一気に高くなることもあります。
親にとっても楽しみな時間です。
この絵本の二人の男の子は、そんな夏を過ごすこともできないまま天国に旅立ってしまいました。
今から30数年前に起きた、悲しい、悔しい一家の真実の物語です。
「どなたか、皮膚をください。大やけどをした妻のために、あなたの健康な皮膚を分けてください!」
新聞には、こんな大見出しに記事がありました。
昭和52年(1997年)9月27日、午後1時過ぎのことです。
横浜市緑区の閑静な住宅街にゴーッという不気味な音とともに、突然ばかでかい火の玉が、空から降ってきました。
アスファルトの道路をえぐって、大地に墜落したのは、アメリカのファントム・ジェット戦術偵察機でした。
長さ18メートル、重さ26トンものジェット機が最大限のスピードで激突し、大爆発したのですからたまったものではありません。
おまけにドラム缶65本にも及ぶ満タンのジェット燃料が、墜落地点から扇のように広がって火炎帯となって近所の家々に襲い掛かったのでした。
燃え盛る炎、もうもうと立ち上がるキノコ型の黒い煙の中に、二つのパラシュートが・・・ファントム機のアメリカのパイロットに違いありません。
そんな炎の中から赤ちゃんを抱えた女の人が悲鳴を上げて飛び出してきました。
上着は黒焦げ、下着がべったり肌に引っ付いて、こめかみから血が噴き出して・・・顔は火ぶくれで、普段の二倍ほどにも腫れ上がり、髪は縮れ・・・そして路上には血だらけの男の子が倒れていました。
両手両足はもとより、体中の皮がむけて、血の塊と同じようです、声を出す力もありません。
それが小さなヤス君だったのです。
頭上には海上自衛隊の救難ヘリコプターがブルンブルンと飛び回ってました。
いちはやく情報を知って、血みどろの人々を助けに来てくれたものとばかり、だれしも思いました。
しかし自衛隊が救助したのは、パラシュートで脱出しゆったりと歩いていた二人のアメリカ兵だったのです。
アメリカ兵を乗せた自衛隊ヘリは、地上に焼け出された人々を置き去りにして空に消えてしまったのです。
そして、その後に来たアメリカ兵たちは、墜落現場の秘密を知られまいと、人々を締め出すことばかりで、被害を受けた人々には何の手も差し伸べようともしませんでした。
そして、その時の日本警察は、国内で起きた大事件にもかかわらず、何一つ原因や真相をも、究明することもできなくなっていたのです。
包帯でぐるぐる巻きになったユウちゃんは、”お水をちょうだい。ジュースをちょうだい!”とせがみましたが、あげることはでません。
もっとひどい状態になってしまうからです。でも、その声も力尽きて静かになりました。
かすかに口元を動かして「”バイバイ”・・・・・・って」9月28日零時5分、3歳のユウ君は息を引き取りました。
そして、お兄ちゃんのあとを追いかけるように、午前4時30分、1歳を過ぎたばかりのヤス君が亡くなりました。
兄弟の最後を見守った親戚のおばさんが涙ながらに話していました。
ヤス君は、”パパ・・・パパ・・・”と、かすれた声で、何度も呼んでいました。
明け方近くなって、何か口ずさむような声が、ひくく、かぼそく聞こえてきました。
”ポッポッポー・・・・・・・”
それは、いつもお父さんとのお風呂で、お父さんが口癖に歌って聞かせた鳩ポッポの歌でした。
歌を歌いながら、ヤス君は息を引き取ったのです。たった1年とちょっとの命でした。
二人のわが子の死を知らされぬまま、お母さんは治療を頑張っていました。
全身の8割を超す大やけどは生きられる保証はありません。ご家族の提供だけでは皮膚が足りないのです。
しかしこの新聞の見出しに賛同した方々が1000人に達しました。
40人分の皮膚移植の手術を何度も受けてお母さんは一命をとりとめました。
いたいけな二人の子どもの命をうばい、その母親をこんなにも苦しめ続けておきながら、なんの責任もとろうとしないアメリカ軍と、事故の時も、そのあとも、そのアメリカの言いなりになっているこの国の”さわらぬ神にたたりなし”的な政治。
1000人を超える人々の勇気ある申し出はその心の違いを見せてくれたのです。
なぜ、こんな痛ましい事件が起きたのか、どうしたら平和な優しい明日を迎えることが出来るのか、日本の子どもたちにも、考えてもらいたいと思います。
僕も考えます。
この事件を知っているでしょうか。
戦後70年の今年、メディアでも様々な形での特集番組などが組まれています。
政府は日本の安全を守るという命題のもとに、安全保障の形を変えつつあります。
この「パパ ママ バイバイ」はとても衝撃的な絵本でした。
作者の早乙女勝元さんは、ずっと戦争をテーマに描き続けています。
ことにご自分の体験による東京大空襲への取り組みはライフワークともいえるものです。
この絵本は、戦争が70年前に過ぎ去った過去の事実ではないこと、今も形を変えて様々に続いていることを伝えてくれます。
30数年前に起きた横浜の事件ですが、アメリカ軍の民間人を巻き込んだ痛ましい事件は、沖縄をはじめ、各所で今も続いています。
戦争を起こしたのも人間です。止めることが出来るのも人間です。
私たちは、恒久平和を子どもたちにつないでいく責任があります。
2度と安易に日本人同士の決定によって、大事な我が子の命を奪われることのないように声を上げていかねばなりません。
子どもたちの死を知ってからも、懸命に闘ったお母さんは、その4年4か月後に亡くなりました。
何一つ解決されていない現実に、お母さんの怒りと不信感は彼女自身の命をも奪うことになったのです。
もうこんなことは、2度と起こしてはなりません。
(赤鬼こと山ア祐美子)
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