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認定こども園 聖愛幼稚園

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赤鬼からの手紙(2015年7月号)



『 天にかかる石橋 』

まつだゆきひさ  ぶん
くろだやすこ   え
石風社
1,200円(税別)

   日本は四季のはっきりした国、その中で雨の降る時期も備えています。 作物はそんな流れの中で豊かに実ります。 長年の営まれてきた気候の中での暮らしでもありますが、多すぎる雨は大きな被害ももたらします。 毎年この季節になると、そんなニュースが目に留まり、人身に関わることに及ぶと、いつも心痛む思いがします。 私たちの先祖もそういう中で、多くの知恵を出し合い自然と生きてきました。 自然の営みと人の営みが、ともに手を携えていかれたらと、この絵本を送ります。

 小さな町を流れる川には石橋がかけられています。石橋というのは、まだ、お侍さんがいたころに石で組み上げられた、それは美しい橋でした。洪水や台風にも何度もあいましたが、びくともしません。子どもたちは、この橋が大好きでした。じんとりあそび、はないちもんめ、石けりにおにごっこ、橋の上にらくがきする子もいます。春には、桜の花が咲き、はメダカやフナ、アメンボウが子どもたちと追いかけっこ。水ぬるむころには、ほたるの季節がやってきます。男の子の手の中で、ほたるはぽおっとひかりました。町は、だんだん大きくなっていきました。石橋のまわりもたくさんの家がたち、蒸気機関車も走るようになりました。子どもたちは石橋の上から機関車に手を振りました。夏になると、町じゅうのひとが楽しみにしている夏まつりです。「どーん」大きな花火が、川面いっぱいにうつり、石橋のまわりも夜店でいっぱい。石橋のうえもひとばんじゅう にぎやかでした。
 やがて、石橋の上を、バスやトラックが走るようになり、橋の上では危なくて遊べません。そしてある日、「どーん がらがら」車どうしがぶつかって、石橋のらんかんもバラバラになってしまいました。子どもたちの遊びも禁止されてしまいました。そして、石橋にとって大事件が起こりました。石橋は壊されて、新しい大きな橋を作ることに決められてしまったのです。「通行止め」の立札がたち石橋は取り壊されていきました。
 「カーン、カーン、カーン」「ドッ、ドッ、ドッ」「ガー、ガー、ガー」台風や洪水に耐えた石橋も機械の力にはかないません。子どもたちは、バラバラにされてゆく石橋をじっとみつめていました。雪が降り出し、石橋は昔を思い出していました。雪合戦、雪だるま、子どもたちの声がこだましています。痛々しい姿の石橋は、空を見上げました。冬の空いっぱいに星が降るようです。「こんど、生まれてくるなら、この天の川にかかる、橋になりたい」
 取り壊し作業が続く中、梅雨になり、雨が降り続きました。雨はますます激しくなりました。水かさも増え流れも早くなりました。「ぼくは、この川といっしょに、ながれていこう」石橋は心に決め、とうとう大きな音とともに崩れていきました。
 石橋はどうなってしまったのでしょうか。

   鹿児島県の街を流れる、甲突川に五つの美しい石橋が架けられたのは、150年も前の江戸時代のこと、今でも語り継がれるあの肥後の名石工、岩永三五郎の技によるものでした。 そのアーチの美しさは、目を見張る精巧な技術であり、ずっと県のシンボルとして大事に守られてきたものでした。

   1993年8月、鹿児島県は大きな水害に見舞われ、百年に一度という洪水でこの石橋が壊れてしまったのです。 この年、私はこの街におりました、忘れることのできない年です。菜種梅雨といわれる春先の雨も多く、晴れ間も見えないまま本格的な梅雨に入り、なかなか梅雨明けしないなあと思っていたら、7月9日にやっとあけたとの発表がなされました。 しかし、その途端になおも梅雨前線が活発化し、おまけに何度となく台風に見舞われたのです。 結局梅雨明けは撤回され、この年の梅雨明けは確定されることはありませんでした。 鹿児島にやってくる台風は、関東のそれとは違います。 できたての台風の威力は予想外な猛威をふるいます。 鹿児島にいる間は何度も大雨の経験はしましたが、この年は特別でした。 春からの相当な雨量が鹿児島の土壌を覆っていたのです。 やっと雨が引いた時には、あたりの景色は一変していました。山は削られ、全く別のものになっていました。 連日のように土砂災害や大雨による被害の報告が流れ、亡くなった人の数が日ごとに増えていったのを思い出します。 多くの子どもたちも犠牲になりました。

   そんな日々が続く中で、石橋のことがTV画面いっぱいに映し出され、あの頑丈で美しい肥後の石工の橋が…と、心底自然の驚異を感じざるを得ませんでした。 その後、石橋を巡っては住民と行政との間で様々な議論がなされ、住民運動に発展しました。 住民の中には石橋を守るために立ちはだかった方々もいたように記憶しています。 結局は残された3つの石橋は公園に移築されるということになりました。 形はかろうじて残されたのですが、橋としての本来の役目は全く失われてしまうことになり、合わせて住民たちの誇りも失われてしまいました。 鹿児島県民の落胆は、いかばかりかと今も思います。

   この絵本は、私たち家族が鹿児島を離れたのちに、当時長女がお世話になった小学校の司書の先生が送ってくださったと記憶しています。 先生の印鑑が押してありました。

   文を書かれた松田先生の病院では、クリスマス会には入院している子どもたちに、いつも手作り絵本の読み聞かせをしていたそうです。 この作品は、その中の一つとして制作されました。 絵を手掛けられた黒田康子さんは、巨匠黒田清輝の血縁の方です。 とはいえ、ご本人は音楽の先生であり絵を学んだというわけでもなかったのですが、やはり天性の才能というものでしょう、この絵本の絵は特に今までとは違うほどの表現がされたと松田先生は思われたそうです。

   その黒田さんは、病に侵されていました。彼女は絵本の出版を待たずに力尽きてしまわれました。 彼女は「百パーセント生きました」の言葉を残して旅立たれたそうです。

   この絵本の最後のページを見ていると、天の川にかかる石橋を笑顔で渡る黒田康子さんが織姫の姿と重なって見えるような気がしてなりません。

(赤鬼こと山ア祐美子)

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