だれも、新しい服から布切れを破り取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい服も破れるし、新しい服から取った継ぎ切れも古いものには合わないだろう。また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は革袋を破って流れ出し、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない。また、古いぶどう酒を飲めば、だれでも新しいものを欲しがらない。「古いものの方がよい」と言うのである。
慣れ親しんだ習慣を変えるのは、とても難しいことです。人はだれでも、一度安定してしまうと、新しい変化を好まなくなるものです。変わることがどんなによいことであっても、「変化」そのものを嫌う傾向があるのです。本当は毎日自分の体の細胞でさえ入れ替わって新しくなっているのに、我が子の成長を現実に見ているのに、変わることに慎重になるのは考えて見れば不思議です。
イエスさまは、神を信じることは、何かにこり固まることではなくて、日々新たな気持ちで歩むことだと教えたかったのです。伝えられたこと、教えられたことを忠実に守ることが間違っているのではありません。しかし、それだけを大切にしていたなら、社会も人の心もどんどん狭いものになっていってしまいます。新しい可能性や異なった価値観を取り込むことが出来なくなったとき、私たちの生き方は、柔軟性を失います。イエスさまは、その状態を、弾力を失った古い革袋にたとえたのです。
自分が手に入れたものだけで自分を守ろうとすると、柔軟な精神を失います。自分が身につけた価値観だけに頼っても柔軟な精神は失われます。生き生きと生きるためには、絶えず新たな力をどこかから、だれかからいただいているのだという謙虚さが必要なのです。
そして実は一番身近なところでは、私たちはその力を我が子かもらっているのです。
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