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書き下ろし連載127
遣わされた者
ルカ福音書4章16−21節

細井保路

   イエスに預言者イザヤの書が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。「・・・主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」・・・イエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。

   イエスさまがご自分の育った村に立ち寄られ、礼拝に参加されたときの出来事です。預言書の巻物の一節を読まれたイエスさまは、ここに書かれていることは、いつ実現するかわからないようなことではなく、お互いの救いを願うならば、すでにその第一歩は始まっている、とおっしゃったのです。

   人の幸せを本気で願うならば、私たちは、小さなことかもしれないけれど、必ず何かの行動を起こします。また、自分を変えようと本気で考えるならば、出来ることから何か始めるはずです。誰かが状況を変えてくれるのを漫然と待っているだけでは、状況は変わりません。その代わり、ほんの少しでも、自分の問題としてとらえることが出来たら、状況は必ず変わるのです。

   イエスさまが読まれた聖書の個所は、旧約聖書の中の『イザヤ書』61章です。「主がわたしを遣わされた」という言葉に深い意味があります。自分の人生を考えるときに、「神さまが、この場所に、この人たちのために、わたしを『遣わされた』のだ」ととらえ直してみると、自分の立場をとても肯定的に受け止めることができると思います。極端な場合、私の具合が悪くて、人のため何かするどころか、人の世話になるようなことになったとしても、それでも、そういうふうに神さまが私をここに遣わしてくださったのだと受け止めることができるはずです。まず、家族の構成メンバーひとりひとりが、家族のために「遣わされた」大切な人であるのだということを改めて考えてみましょう。


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