「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、福音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」
「自分を捨てろ」というのは、極端な言葉です。そう言っておきながら、「自分の命を失ったら何の得があろうか」と言うのは矛盾しているように聞こえます。しかし、イエスさまは、神さまがくださった命を大切にしなさいということをおっしゃりたいのです。
子どもの小さな命は日々成長します。わたしたちはよりよいものを求めて努力もします。新しくなること、変化することは、生きているあかしのようなものです。しかし、前人未踏のすばらしいことを成し遂げる人にとっても、力を発揮できずに苦しむ人にとっても、神さまが与えてくださった本来の命の姿は変わらないのです。だから、どれほど進歩と成長があったとしても、見当違いの方向へ向かっているならば、それは本当の幸せにはならないのです。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失う」とイエスさまがおっしゃるのは、そのためです。
自分が成功すること、自分が得することだけを考えるのは間違いだと誰もが知っています。しかし、自分の満足だけを求めてしまう自己中心的な思いは、誰の心の中にも潜んでいます。もっと大事なものがあること、自分のことを心配してくれる人がいること、自分が喜ばせることのできる人がいること、そういうことに気づかせる役割は、親にあるのです。人生の様々な場面で、自分を犠牲にしてでも守るもがあることに気づくことはあります、でも、見守ってくれている親の存在を肌で感じることができる子どもは、必死になって獲得するまでもなく、すばらしい命が与えられていることに気づくことができるのです。
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