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認定こども園 聖愛幼稚園

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書き下ろし連載108
種蒔きのたとえ
マルコ福音書4章3〜8節

細井保路

   「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」

   このたとえ話の「種」は、「神の言葉」のことだとイエスさま自らが説明しています。「神の言葉」は「幸せになりなさい」というメッセージです。そのメッセージを聞き取ることができるか、つまり、自分の人生の様々な場面で、幸せをみつけることができるかが問われているのです。

   しかし、現実には私たちは、日々の生活の中で、辛いことや悲しいことに遭遇し、幸せなどどこにあるのかわからなくなってしまうこともあります。また、他の人の幸せそうな様子をみて、自分にはそれが与えられていないような気がしてきます。そんな不公平感を抱き、心から日々感謝の内に過ごすことができずにいる私たちに向かって、イエスさまは、このたとえ話をなさったのです。

   種は、芽生えるはずもない道端にも蒔かれているのです。つまり、誰一人例外なく、神さまは私たちを幸せな人生に招いておられるのです。でも、人によって人生の長さが違い、健康状態が違い、生活の豊かさが違い、体験の過酷さも違います。その違いの方に目を奪われてしまうと、途端に幸せなど見えなくなります。だから私たちは、自分の人生については、たくさんの幸せを見つけるように心がけ、幸せを見失った人、奪われた人に対しては、その人たちが、決して失われることのない幸せに気づけるように、助け支えなければならないのです。もちろん、何もしてあげられないことの方が多いのですが、少なくとも、辛い思いをしている人たちの幸せを願って祈ることはできるはずです。


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