「ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、『どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか』と言った。イエスはこれを聞いて言われた。『医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。』」
どんな社会にも、気になる行動をとる人や、付き合いにくい人などはいるものです。私たちはそういう人との間に距離を置いてしまいます。まして、反社会的な考え方や行動を容認するわけにはいきません。しかし、イエスさまは、まじめに社会生活をしている人たちがなんとなく敬遠しているような人たちの所にも、積極的に訪ねて行ったのです。
なぜでしょうか。それは、「神の愛を伝える」ということが、イエスさまの使命だったからです。目に見えない神さまは、知らん顔をしておられるのではなく、呼びかければ必ずそばに居て支えてくださる方なのだということを伝えたかったのです。社会の中で認められていない人ほど、自分が生きている価値を見つけることができずに悩んでいます。人からさげすまれ悲しい思いをしている人でさえも、実は、神さまからいただいた、人間としてのすばらし尊厳があり、幸せに生きることがゆるされているのです。それを誰もが実感するためには、「確かに自分は受け入れられている」ということを感じられる体験が必要です。私たちが元気に生活していられるのは、知らず知らずのうちに、自分がまわりの人から受容されているという感覚を身に着けているからなのです。
「罪人を招くために来た」というイエスさまの言葉は、「他人が『罪人』とレッテルを貼ろうとする人も、神さまは愛し招いてくださっていることを伝えに来た」という意味なのです。
子育てで大事なことは、まさに、愛され受け入れられているという実感を子どもたちが身に着けることにあります。そこに親の大きな役割があるのです。
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