「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」
イエスさまは、最後の晩餐のときに、つまり、弟子たちともう別れなればならないときに、この言葉を残されました。
人のいのちが、神さまにつながっていることを思い出させるために言われた言葉です。
イエスさま自身は、天の父である神さまから決して離れないで生きることを通して、私たちに神さまの姿を示そうとされました。
どんな困難があろうとも、いのちは神さまからいただいたものなのだから、しっかり神さまにつかまっていなければいけない。
また、しっかり神さまにつかまっていれば、どんなに辛いことがあっても、辛さにまさる生きる喜びを感じることができると伝えたかったのです。
そして、一人ひとりが徹底した覚悟をすることができないのなら、せめて「わたしにつながっていないさい」と言われるのです。
神さまが望んでおられるような、つまり、世界中のすべての人の幸せを願うような大それた生き方はできなくても、神さまに生かされているのだという感謝の気持ちを忘れないだけで十分だと言われているのです。
まだ葉が茂る前のこの時期のブドウ畑を眺めながらこのイエスさまの言葉を味わってみたいものです。
一本のブドウの幹から実に遠くまで見事に枝が伸びている様子を見ることができます。
「つながっている」ことをイメージするのにはピッタリの光景です。
神さまの温かな思いがこの世界に満ちるためには、大いなるいのちにみんなつながって生かされているということをちょっと思いだすだけでいいのです。
誰でもできる簡単なことなのに、わたしたちはすぐそれを忘れて、妬んだり、恨んだり、憎んだりしてしまうのです。
この世界でみんなが、同じように生かされているという当たり前のことを思い出すことは、立派な行いよりもずっと大切なことなのです。
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