イエスさまを皆に紹介する役割として、洗礼者ヨハネという人物が登場します。
そしてヨルダン川で人々に洗礼を授けます。
水を浴びるためには、贅沢な衣服で着飾っているわけにはいきません。
また、大切なものを抱えたままでいることもできません。
つまり、自分がこだわっているものやとらわれているものを手放すことを象徴的に表わす儀式だったのだと思います。
それは、神さまの恵みをまっすぐに受け止めるとこができるように、自分の心の中の障害物を取り除くという作業です。
「お前は何者で、なぜそんなことをするのか」という質問に対して、ヨハネは「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と」と答えます。
これは旧約聖書のイザヤ書40章にある言葉です。
「呼びかける声がある。主のために荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために荒れ地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。主の栄光がこうして現れるのをすべての人は共に見る。主の口がこう語られた。」
ヨハネは自分の使命として、この聖書ことばをいつもイメージしていたのです。
つまり、神さまがわたしたちの内で働いてくださるのを妨げるような障害物を、人びとの心の内から取り除くことを促すのが自分の役割だと感じていたのです。
そして、そこから先は、神さまにお任せすべきなのです。
同じことが、子どもの教育についても言えます。
子どもたち一人ひとりに与えられているすばらしい力が花開くために必要なのは、厳しい訓練や早期教育ではなくて、子どもに備えられている力が育つのを妨げる「障害物」を、取り除くことなのです。
障害物はいろいろあります。たとえば、不安や恐れやあきらめ。
これは、「大丈夫」とはげますこと、寄り添うことで解消できます。
また、先入観や偏見も押しつけないように気をつけましょう。
そして、子どもたちの成長にエールを送りましょう。
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