ぶどう園の主人が、労働者を雇うたとえ話です。
朝早くから何度も広場へ出かけて行き、仕事のない人たちを雇い上げました。
そして、一日の終わりに、なんと、一日中働いた人にも、夕方ちょっと働いただけの人にも、同じだけの賃金を払ってやるというお話です。
この不公平感はとてもわかりやすいものです。
賃金や報酬の話である限り、これは不正以外のなにものでもありません。
しかし、イエスさまは、あえて、この理不尽な話をきっかけにして、「恵みとは何か」ということに気づかせようとなさったのです。
「お恵み」という言葉をキリスト教はよく使います。
何となく、上から見下して、施してやるようなイメージのある言葉ですが、そうではなくて、神さまが無償で、無条件で与えてくださるものという意味です。
賃金や報酬やご褒美ならば、私の働きに見合ったものであるはずです。
しかし、神さまのくださる「恵み」とは、誰に対しても、その人の努力や、能力や、がんばりには関係なく、無条件で、しかも豊かに与えられているものなのです。
私たちは、「がんばった分だけ報いがあるはずだ」という思い込みのために、人の幸せを奪ってまでも得をしようと考えたり、人の幸せを妬んだりしてしまうのです。
そして、実は私たちは誰ひとり例外なく、無条件でいのちを与えられ、無条件で神さまから愛され、ゆるされているのだということを忘れてしまうのです。
私たち一人ひとりに与えられた人生は無償のお恵みであると受け止めることができるならば、深い感謝の気持ちを持つことができるはずです。
そればかりか、他の人のそれぞれの人生を尊重する気持ちも湧いてきます。
でも実は、自分にのしかかってくる多くの不安や苦しみと闘っているとき、ふと気がつくと、人の幸せを願う余裕などなくなっている自分がいるのです。
自分の悩みを一旦脇へ置いて、誰かの幸せを願う気持ちを取り戻してみましょう。
そこから必ず新たな道が開けてくるはずです。
なぜなら、「神のみこころ」とは、「人間が幸せになるための本来の姿」のことにほかならないからです。
そしてそれは、自分も含めて「人の幸せを願う」ことだからです。
そして、自分のためだけにがんばるのではなくて、人の幸せのためにも心を尽くすことができたとき、深い幸せな気持ちを味わうことができます。
それこそは、単なる恵みではなくて、本当の意味で「ご褒美」です。
神さまは、「お恵み」も「ご褒美」もくださるのです。
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