イエスさまが、御自分の死を覚悟し始めた頃のことです。数人の弟子を連れて祈るために山に登ると、そこでイエスさまの姿が光り輝いたと弟子たちは伝えます。
いつにもまして威厳のある姿に見えたという風にも思えますが、イエスさまの不安な話に、弟子たちも心細くなっていたときの出来事だということを考えると、イエスさまの姿は、今までより小さく頼りなく見えていたと想像することもできます。しかし、その頼りない存在を支える者として、モーセとエリヤが現れたと書かれています。モーセは旧約聖書の掟の部分を象徴する人物です。エリヤは預言の部分を代表する人物です。つまり、弟子たちが、イエスさま自身の魅力や威厳に目を奪われなくなったときに、イエスさまを支えているイスラエル民族の歴史や信仰の存在が見えてくるのです。
一人ひとりの存在は、その人を取り巻く人々や自然環境や、さらには歴史や文化に支えられているものです。その意味で、どんなに小さな存在も尊いものなのです。わが子がいとおしいのは、私がその存在を支える重要な役割を担っているからでもあり、私と同じ歴史や文化を分かち合う存在だからでもあります。そのことに気が付くと、出会うすべての人が、人や自然や歴史に支えられて、その歴史の一番先端の部分に立っていることを認めることができます。誰もが皆、時間の流れの先頭に立ってがんばっているのです。
さらに、弟子たちは、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。」という天からの声を聞いたといいます。私たちは直接にそんな声を聞くことはまずありませんが、イエスさまが私たちに伝えたかったことはまさにこの言葉だったのです。イエスさまご自身が父である神から受けとっていたのは、「お前は私の愛する子である」というメッセージであって、そのメッセージが誰の心に内でも響くようにと願われたのです。誰の心の内にも「あなたが大好きだ」というメッセージが響いていること想像してみましょう。
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