「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者になりなさい。」とイエスさまはおっしゃいました。私たちは神ではないのですから、完全であることなどは不可能なことです。それなのに、イエスさまは、あえて「神のようであれ」と言われるのです。「あなたがたの天の父の子となるために、敵を愛せ」とまで言われるのです。
神とは何か、神の望みは何かといくら考えてみても、答えが与えられているわけではありません。イエスさまは、答えのない神の望みを探し求めるのではなくて、ただ神に寄り添って生きようという姿勢を持っていればいいのだと言われるのです。自分の狭い考えに閉じこもるのではなく、身につけた知識や先入観に縛られることなく、自由な精神で周囲を眺めまわせば、悪人にも善人にも陽が昇り、雨が降るという現実が見えてきます。例外はなく、誰もが生かされているということに思い当たれば、敵か味方かとか、仲間か部外者かとか言うこだわりは、かえって私たちを不自由にしていることに気がつくのです。
張り子の型を考えてみてください。張り子の型を神さまだと考えれば、私たちは、そこに貼りつく和紙のようなものです。型にしっかりと貼りつけば型と同じ形になりますが、離れていればペラペラの和紙にすぎないのです。「神のようであれ」ということは、形ははっきりわからなくても、相手に寄り添ってみようとすることです。自分本位の生き方ではなくて、すべてを生かしている自然の大きさを意識してみることです。自然を相手にするというのでは漠然とし過ぎていると思うなら、子育てを始めた時のことを思い出してみればいいのです。私たちは、まだ言葉も操れない小さな赤ちゃんに、たっぷりと語りかけたはずです。わが子の望みや健康状態を真剣に読み取ろうとしたはずです。そうやってわが子に寄り添うことができたのです。その感覚を取り戻しましょう。
戻る