イエスさまの復活の出来事は、キリスト教が生まれる決定的なきっかけであると同時に、もっとも理解されにくい事柄でもあります。
弟子たちの体験は、まず亡くなったイエスさまのご遺体が墓から消えたというショッキングな出来事から始まります。そして墓には天使と思われる人がいて、「あの方は、あなた方より先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」と告げるのです。ガリラヤとは彼らの生活の場です、祭りのために遠いエルサレムの神殿まで旅して来た人たちが、日常の生活に戻る場所です。亡くなられたはずのイエスさまは、彼らの日常生活の中に共におられると言うのです。
イエスさまはこの世での人生を断ち切られて、「天の父」と呼んでいた神さまのもとへ帰られたのです。イエスさまの復活という日常の時間を超えた出来ごとによって、誰の人生も神さまのふところへゴールするのだということに弟子たちは気づかされたのです。
必ず神さまのところへゴールするなら、どんな人生を送ってもかまわないと思ってしまいがちです。でも、イエスさまが本当に伝えたかったのは、人生の最後がハッピーエンドなら、それは最後だけなのではなくて、この世に生を受けた瞬間から、私たちは神の御手の中にあるということなのです。人生のどの瞬間も、どんな場所にいても、私たちは神の祝福の内にいるのです。
苦しみや悲しみや心配ごとが、障害として私たちの前に立ちふさがって、神の愛に包まれていることを忘れてしまいそうになるときこそ、イエスさまが示してくださったように、誰もが、神さまのところへゴールするのだということを思い出すべきです。そのことを天使は、「素晴らしい人生の結末を教えてくださったイエスさまは、ガリラヤで、つまり、あなたたちが帰って行く日常生活の中で待っていてくれる」と伝えたのです。恨みや後悔や不安にとらわれるのでなく、人生の素晴らしさを見つけて生きて行くことこそが、「復活」を信じることなのです。
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