「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」というイエスさまのことばがあります。当時のパレスチナ地方に住んでいた人たちは、ローマ帝国の支配下にあったので、皇帝に税金を納めなければなりませんでした。それは、イスラエルの民族のプライドを傷つける事柄だったと思います。
宗教的な掟は、本来は、私たちが大いなるものによって生かされているということを思い出すためのものであったはずですが、民族意識の強い彼らは、「皇帝を神より優先することは掟に反する」という風に思って苦しんでいたのです。そして、苦しむだけでなく、いつしか掟は民族意識を高めるための道具になっていってしまったのです。つまり、宗教が「生かされていること」を実感するための役割を果たすのではなく、自分たちが結束するための道具でしかなくなってしまったのです。
そこで、イエスさまがもし、「税金を納めるのは仕方がない」と教えたなら、「私たちの神を大事にしないのか」と攻撃しようと思ったのでした。また、反対に、「掟に従うなら、皇帝より神が大事だ」と、彼ら自身がローマ帝国を恐れておおっぴらには口にしないことを威勢よくおっしゃったなら、「皇帝に反逆する危険人物だ」と言って訴えてしまえばよいと考えていたのです。
イスラエルの人たちが大事にしていた「神を愛せよ」という掟の意味は、神さまに生かされていることに感謝しなさいということです。もっと神さまに委ねていきなさいということです。そのことが忘れられた途端に、宗教は、自分たちが結束するための道具、自分たちを正当化する道具になり下がってしまうのです。
私たちは、思い通りにならないことや、簡単に解決しない問題などに取り囲まれて生活しています。困難に直面する時、自分のルールにしがみついて突き進むのではなくて、ちょっと立ち止まって、生かされているという実感を取り戻すことから始めなさいとイエスさまはおっしゃっているのです。
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