イエスさまは、弟子たちに、人を癒す力を授けて街々を巡り歩かせました。その際、何も持たず、何の準備もせずに出かけて、受け入れてくれる家に泊めてもらいなさいと指示しています。
マタイの福音書には、「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」という言葉が付け加えられています。ですから、いただいた恵みや力を、人のために使うという体験をさせたのだと考えることもできます。しかし、「迎え入れられなかったら、縁がなかったと思って立ち去りなさい」とわざわざおっしゃってもいるのです。つまり、わたしたちに与えられている恵みは、それに気づき味わう用意のできているところでしか花開かないということです。
弟子たちは、受け入れてくれる優しい人たちとの間に、おおきな喜びが生まれることを体験し、また、拒絶されることで、自分達が本当に無力であることをも経験したのです。
そして、その経験を通して、彼らが学んだことは、「神の恵みは、それに気づき味わう人がいるところに現れてくる」ということと、そうであるならば、「まず自分自身が、神の恵みを受取る最初に人にならなくてはいけない」ということだったのです。
素晴らしいことは、いつも、私から始まる、と私たちは本気で思っているでしょうか。「こんなひどい目に会った」「こんな損をした」「なぜ他の人ばかりいい思いをするのか」などと考えて暮らしていないでしょうか。そうやって、素晴らしいことに背を向けて、降り注ぐたくさんの恵みを無駄にしてしまってはいないでしょうか。
問題はいつも山積みだけれど、それ以上に、この世界は、素晴らしいことで満ち溢れているのです。忙しすぎてそれを見失っているのなら、少し休むことも必要です。子どもたちに夏休みがあるのは、普段と違う時間の流れの中で、もっともっと大きな喜びに出会うためなのではないでしょうか。そして、子どもに降り注ぐ恵みに気づくならば、私たちも素晴らしいことと出会っているのです。
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