イエスさまが折にふれてうったえ続けたのは、人は皆、神さまにゆるされた存在であるということでした。
しかしそれは、掟を守れば救われると考えている人たちには、受け入れられない考えでした。
また、すべてがゆるされるのなら、弱い人間の集まりであるこの社会は無法地帯になると感じる人たちからも拒絶される考えでした。
だから、人びとは、先祖の言い伝えや、社会のルールを無視する危険人物としてイエスさまを断罪することで、イエスさまを黙らせようとしていたのです。
そこで、間違いを犯した女性を無理やりイエスさまのところへ連れて行くのです。
そして、もし「ゆるしてあげなさい」と言ったら、「お前は何の権限で律法に反することを言うのか」と詰め寄るつもりだったのです。
「律法によれば、この女は石で打ち殺されてしかるべきです」という彼らの言葉に対して、イエスさまは、「では、罪を犯したことのない者は、この人に石を投げなさい」と答えます。
私たちは、人の情けによって随分救われています。
イエスさまをやり込めるために集まった人たちは、イエスさまのその答えを聞いて、誰もが人生の中でたくさんのミスを許してもらっていることに、はたと気づきます。
そして、聖書には、「年長者から順に立ち去った」と書かれています。
人生経験が豊かであるということは、自分の人生がいかにたくさんの人の恩情と優しさに支えられているかを知っているということです。
だから、まず年長者が、イエスさまの言葉の重みに気づいたのです。
イエスさまは、闇雲に人を許せと言っているのではなく、
「あなたがゆるされた存在であること、神さまにゆるされているのだということに気づきなさい」と
おっしゃりたいのです。人生で色々な壁にぶつかる時、人は誰もが神さまにゆるされた存在なのだということを思い出しましょう。
そこから、生きる勇気や人への優しさが生まれて来るはずです。
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