「初めにことばがあった。・・・ことばは肉となってわたしたちの間に宿られた。」ヨハネ福音書は、こういう書き出しで始まります。ルカ福音書は旅先の馬小屋でイエスさまが生まれる話を記し、マタイの福音書はそのイエスさまを東方から博士たちが拝みに来たと記しています。しかし、ヨハネ福音書は、イエスさまの誕生の話、いわゆるクリスマスの話には全く触れず、神のことばが私たちの間に宿ったのだと表現するのです。
イエスさまの存在は、神さまが私たちを愛してくださっていることを示すメッセージそのものだ、とヨハネは気がついたのです。イエスさまと一緒に過ごすうちに、神さまは決して私たちを見捨てず、いつも共にいてくださるのだというメッセージをイエスさまの言動から感じ取ったのです。
「信仰」とは、つまり、自分の目の前の現実から、愛やゆるしや恵みを読み取る目を持つことなのです。神についての正しい理解があるかとか、信心深い生活をしているかとかいうことが大事なのではなく、私に与えられている人生のあちこちに神の祝福を読み取る視点を持つことなのです。感謝するものを見つけて喜ぶことができることこそが幸せなのです。
しかし、私たちは誰でも、アラ捜しは得意だけれど、良い点を見つけるのはヘタクソです。どうしてそうなってしまうのかはわかりませんが、気に入らないことのほうが目につくのです。でも、慌てずに、注意深く見るならば、私の目の前の現実の中には、必ず私のために用意されている素晴らしいものが置かれているのです。それを見落としてしまうのは、なんとも残念なことです。
クリスマスのお話の中で、羊飼いたちが、生まれたばかりの赤ちゃんの姿のうちに神の救いのメッセージを読み取るというシーンがあります。私たちも素朴な羊飼いにならって、私に与えられた現実の中からたくさんの幸せを読み取りましょう。
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