「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」
自分が死んでしまうという連想は、とても恐ろしいものです。でも、豊かに実った麦畑を想像してみることは、大事なことです。
私たちにとっては、麦畑よりも、田んぼの方が身近です。もう稲刈りもすっかり終わりましたが、重い穂を垂れた黄金色の稲田を思い浮かべてみましょう。
確かに、一粒ずつの米つぶから、あの稲穂が育って来るのです。
その意味では、豊かに実った稲穂こそが、ひとつの米つぶの本当の姿なのだということができます。
本当の姿であると同時に、もうその最初の米つぶはあとかたもなくなっているのです。
本当の自分を手に入れるにつれて、私の努力とか、私の手柄とか、私だけの物とか、私の存在理由さえ、どうでもよいと思えるほどに神の恵みのほうが前面に出てくるのだということを、イエスさまはおっしゃりたいのです。
米つぶである自分を、意識から消し去ろうという努力はむなしいものです。
自分を捨てようなどと考えれば考えるほど、自我の意識にとらわれます。
そうではなくて、すでに恵みに満たされている自分に気づけばよいのです。
幸せに包まれて生きているならば、幸せを追い求める必要はないはずです。
困難を抱えていたとしても、誰かが支えてくれていたら、自分の苦労を恨みがましく思う必要はないのです。
思いどおりにならなくても、誰かが信じていてくれたら、自分を認めさせようとして必死になる必要はないのです。
死」のイメージを不吉な恐ろしいものとしてしりぞけるのではなくて、時には、自分が徹底的に肩の力を抜いた状態としてイメージしてみることは、大切なことだと思います。
私ががむしゃらにがんばるのではなくて、私に本来与えられているものが花開き実を結ぶ。私に用意されている恵みで満たされていく。それが人生なのではないでしょうか。
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