「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」とイエスさまはおっしゃいます。
そしてその食べ物をイエスさまが与えてくださるというのです。
この言葉は、「人はパンだけで生きるのではなく、神の言葉によって生きる」という古くから言われてきた言葉に通じるものです。
本当のいのちとは、自分だけのものではなく、人はみんな、神のいのちの内にひとつにつながっているということなのです。
どんなに美味しいものを、どんなにたくさん食べても、時間がたてば空腹になり、もっと食べたくなります。
また、目の前に飢え死にしそうな人がいたとします。
代わりに私がたくさん食べてあげたとしても、その人の空腹が満たされることはありません。
「朽ちる食べ物」とはそういうことを指しているのです。
目に見える「食べ物」だけに囚われた生き方は、自分だけが助かればいいという生き方です。
でも、皆がひとつの大きないのちの内にあるという考え方ができれば、飢えている人に出会えば、もしかしたらそれが私だったかも知れないと思えるのです。
そして、解決のために小さな一歩を踏み出すことができるのです。
犯罪者に出会ったとします。
状況が変わっていれば、私が犯罪者であったかもしれないと思うことができます。
災難に遭った人に出会ったとします。
もしかたしたら、私がその災難を引き受けていたかもしれないと思うことができます。
自分だけが助かればいい、自分さえ正しければいい、という心の狭さを打ち破るためには、みんなが一つのいのちの内に生きていることを感じる必要があります。
「天の父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる。」(マタイ5・45)という聖書の言葉は、神の愛が皆に平等だというだけではなく、神さまがくださるいのちは、神さまがくださる恵みは、みんなで分けあう一つのものなのだということを思い起こさせてくれるのです。
イエスさまは、先にあげた言葉をおっしゃる前に、実は、その女性に、「水を一杯飲ませてください」と声をかけているのです。
その言葉は、相手の心の泉を開くためのいわば呼び水だったのです。
私たちは、お互いに、自分の心がもともと愛に満ち溢れていることに気づかないばかりか、お互いに、相手の心の泉に石を投げ込んで、それを塞ぐようなことさえしているのです。
わが子に対しても、「ちょっと助けて」「ちょっと手伝って」と、どんどん声をかけましょう。
子どもたちは、その言葉で自分の心にすでに用意されている優しさに気づくことができるはずです。
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