「私を受け入れる人は、私をお遣わしになった方を受け入れるのである。」とイエスさまはおっしゃいます。
言葉を変えれば、私たちは誰でも、誰かに送り出された存在だということです。
ぽつんと独りで存在している人などというのは決してありえないのです。
一人の人の存在は、周囲でその人を受け入れている人たちによって成り立っているのだし、また、その人を取り巻く自然環境からも影響を受けます。
さらに、自分自身でも把握しきれていない歴史的背景さえも背負っているのです。
私たちは誰でも、そういった大きなものを各自の背後に従えて存在しているのです。
どんなに自分が無力であると感じていても、大きな自然に包まれて心穏やかに過ごすことはできるのです。
どんなに自分が矛盾だらけだと感じていても、信じてくれる人や味方になってくれる人たちに支えられて生きることができるのです。
イエスさまは、さらにその上に、愛の源とでも言うべき神さまが存在していて、私たちのちっぽけな存在を包みこんでいてくださるというのです。
そうイメージすることができたなら、出会うすべての人の背後に、愛という名の、人を生かす優しさを見つけ出すことができるのです。
しかし、残念ながら、人は、競ったり、だましたりすることもあって、そういう苦い経験から、「人を受け入れることは、その背後にある大いなる愛を感じることだ」などと、悠長なことを言っていられなくなっているのです。
イエスさまは、この言葉の少し前に、「遣わされた人は、遣わした人にまさらない。そのことをわかって生きるなら幸いだ」とおっしゃっています。
大いなる愛を自分の背後に感じていれば、自分自身はどんなにつまらない存在のように見えても幸せを感じて生きることができるのです。
自分の背後にも、相手の背後にも神を感じる、つまり、誰もが大きな愛に包まれて生きているというイメージを持ってみましょう。
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