あるときからイエスさまは、「私はこの世に属していない」と言い始めます。
そして、捕えられてローマ総督ピラトに尋問を受けた時にも、「私の国は、この世には属していない。もし、私の国がこの世に属していれば、私がユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。
しかし、実際、私の国はこの世には属していない。」(ヨハネ18・36)と繰り返して答えられました。
この奇妙な言葉は何を意味しているのでしょうか。
ヒントは、イエスさまを取り巻く人たちの言葉の中にあります。
人々の口をついて出てくる言葉は、自己正当化と責任逃ればかりです。
それに対して、イエスさまは、自己正当化をしようとはなさらないのです。
なぜなら、神さまがすべてをご存知で、決して見捨てられることはないと確信しているので、自分の正しさを誰かに認めさせようとする必要がないからです。
しかし、私たちは、なかなかそんな確信が持てません。
そこで、ついつい、自分の正しさを認めてもらいたくなり、自分の立場が危うくなると、人のせいにしたり、もっとひどい場合には、人を悪者に仕立て上げたりさえするのです。
慈悲深い大いなるものに任せるという気持ちを失ったとたん、私たちは、必死で自分の立場を守ろうとし始めます。
イエスさまは、その大いなるものから離れ、人を蹴落とすことでやっと自分の立場を守るような人ばかりになってしまった現実を、「この世」と呼んでいるのです。
「この世に属さない」という言葉は、自分の保身だけを考えて自己正当化をし、人を愛することやゆるすことを忘れてしまうような生き方はしない、という覚悟のあらわれなのです。
「神さまがすべてをご存じだから大丈夫」というおおらかさは、誰かが私を信じてくれている、愛してくれている、認めてくれている、という安心感に基づいているのです。
わが子におおらかな心の人に成長してほしいと望むなら、まず親が自分の子どもを認め、愛すること以外にはないのです。
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