学校法人 聖愛幼稚園
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書き下ろし連載36
銀貨のせいにはできない
ルカ福音書15章1−10節

細井保路
                

   ルカ福音書の15章には、有名な「放蕩息子のたとえ話」が書かれていますが、その前に、同じテーマで2つの小さなたとえ話が書かれています。迷子の羊のたとえと、なくした銀貨のたとえです。

   100匹の羊のうち、1匹がいなくなっても、一生懸命探すだろう、とイエスさまは言われます。10枚の高価な銀貨のうち、1枚を紛失しても、一生懸命探すだろう、とたたみかけるように言われます。しかし、私は、あきらめが早いほうなので、このたとえ話を初めて聞いたとき、どうもピンときませんでした。 お金が出て来ないなら、イライラして探すよりも、サッサとあきらめて、大掃除のときにでもヒョッコリ出て来たら、そのほうが嬉しいではないか、などど考えてしまうのです。よく言えば執念深くない、悪く言えば投げやりな自分の性格に気づかされます。 でも、この話は、神さまの執念深さにスポットが当てられているのではないのです。もちろん、薄情な私よりも、はるかに神さまは情け深いでしょうが、この話の焦点は、迷った1匹も、紛失した1枚も、手元にあるものと同じだけの価値がるという点なのです。

   聖書の本文は「1匹を見失ったとすれば・・・」と書かれています。それを私たちは、ついつい、「迷子になった」と読み替えてしまうのです。そしてさらに、迷子になった羊の側になんらかの落ち度があるというイメージを膨らませてしまうのです。 私を中心に、まわりを見回せば、大切な人と、どうでもいい人がいて、さらに、自分にとって不都合な人については、向こうに問題があるのだと決めつけてしまうのです。 イエスさまがたしなめたかったのは、その点なのです。相手を悪者にして自分の薄情な気持ちを合理化するのではなくて、神さまの目線を、つまり、どの人も同じように大切なのだという視点を持つことを目標にしなさい、と言われているのです。 誰のこころにも潜む、誰かを悪者にしたいという誘惑を乗り越えていきましょう。


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