正面の大きな入り口が開いているからと安心していると、入る直前で戸が閉まり、家の主人は「お前たちなど知らない」と言うだろう。だから、自分は救われる側にいるから大丈夫とたかをくくっていてはいけないとイエスさまはおっしゃるのです。
どうもこういう話を聞くと、キリスト教は、結局、改心した人だけが救われると言って、信仰を強要するのではないかと感じてしまいます。しかし、この箇所を丁寧に読むと、最後の方で、あちこちから人が呼ばれ皆天国の宴席に着くのだと書かれています。
ではなぜ、そのままではお前たちは天国から締め出されるぞというようなおどし文句をイエスさまは言われたのでしょうか。
実は、そのヒントは、イエスさまに質問した人の言葉にあるのです。ある人が、「救われる者は少ないのでしょうか」と質問し、それに対して、イエスさまが厳しいことを言われたのです。
質問した人は、自分は救われる者の側にいると思っているのです。そして、この乱れた世は救いがたいとも思っているのです。だから「救われる者は少ないのでしょうか」などと質問したのです。社会の現状を情けないと感じていても、違う言い方もできたはずです。「みんな救われたらいいですね」と言ってもよかったのです。
私たちにも、心当たりはないでしょうか。「現代の社会はおかしい」とか、「今の若い人たちはダメだ」とか、「指導者がなっていない」とか、自分のことは棚に上げて現状を憂いてばかりいるのです。同じ状況の中に置かれていても、「なんとか世の中をよくしよう」とか、「お互いにもっと理解しよう」という姿勢を持つことだってできるはずなのです。
イエスさまは皮肉たっぷりに、「仮に今すぐ天国の戸口が閉まったとしたら、完璧な人などいないのだから、お前も含めて、だれも入れないよ。」と言われたのです。だから、「あいつらは入れない」ではなくて、「皆で入れてもらおう」という気持ちを持つことが大切なのです。
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