この箇所は、「善いサマリア人」のたとえ話として有名です。「隣人を愛しなさい」という掟に対して、「では、『隣人』とは誰を指すのですか?」と質問をした人がいました。その質問に対するイエスさまの答えがこのお話なのです。
追いはぎに襲われた人がさびしい街道に倒れています。日頃、同胞愛、隣人愛を説いているような人たちは、瀕死の男を助けないで通り過ぎてしまいます。彼を助けたのは、普段はお互いに軽蔑し合って、あまり付き合いがないサマリアという地方の旅人でした。
そういうたとえ話をしたあとで、イエスさまは、倒れていた男にとって、「隣人」は誰だったか?と逆に質問するのです。答えはもちろん、彼を実際に助けた人です。
ドキリとさせられるたとえ話です。見て見ぬふりをして通り過ぎた人たちも、もし倒れているのが自分の身内だったら、万難を排して助けたはずです。イエスさまは、隣人かそうでないかというような区別をする心を改めよとおっしゃっているのです。誰もが「隣人」なのです。
ある人がイエスさまに向かって、尊敬の念を込めて「よい先生」と呼びかけた時、イエスさまは、「よい方は天の神さまだけだ」とたしなめました。すべては、よいものであり、区別をつけるなということなのです。「よい」ものを求めて手に入れた人がいれば、必ず「カス」をつかまされる人も出てくるのです。そうやって人間の社会は、「すべてを慈しむ神」の精神から離れていってしまうのです。
もちろん私たちは、まず家族を大事にし、友人や身内を大事にします。人間関係には、必ず、優先順位はあるはずです。しかし、そのうえで、誰もが例外なく大切にされなければいけないという気持ちを、忘れてはならないのです。
善いサマリア人のたとえ話を読むまでもなく、日本には、「困ったときはお互いさま」という美しい言葉があることを思い出しましょう。
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