人はみな平等だと頭ではわかっていても、私たちは、知らず知らずのうちに、人間の上下関係というのを作ってしまいます。そういう慣習を気にして、それに縛られています。イエスさまの弟子たちも例外ではありませんでした。誰が偉いか、誰が優れているか、誰がイエスさまに一番気に入られているか、そんなくだらないことをお互いに気にしていたのです。
それを見たイエスさまは、小さな子どもを皆の内に立たせて、「最も小さい者が、最も偉大なのだ。」と教えられました。その人の価値は、その人が自分で宣伝するものではないのです。周りの人がその人の価値を認めるものなのです。しかも、偉いから価値があるのでもなく、強いから価値があるのでもなく、正しいから価値があるのでもなく、「無条件で」価値があるのです。神さまの前では、みんなが小さい者なのです。ちっぽけであるにもかかわらず大切なものなのです。それを認めないなら、宗教や信仰は空しいものです。「最も小さい者が最も偉大」とはそういう意味です。
そう言われて見て気づくのは、私たちは、なかなか「無条件」で人を受け入れていないということです。
「愛している」と思っていても、「私の言うことを聞けば愛してあげる」とか、「約束を守るなら愛してあげる」と、無意識のうちに条件をつけてしまっている場合があります。まして、「ゆるす」ということになると、ほとんどの人が、「二度としないなら許してあげる」と条件をつけているのです。本当の愛やゆるしは、「無条件」でなければならないはずです。少なくとも、子を愛する親の気持ちは「無条件」であるはずです。
溺愛は、相手の自由を奪うほどに干渉し縛ることであって、無条件の愛とは違います。条件をつけずに相手の価値を最大限に認めることは、相手を信じることでもあります。あらためて、わが子を愛しゆるし信じているか問い直してみましょう。
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