学校法人 聖愛幼稚園
〒400-0071
山梨県甲府市羽黒町618(地図
TEL 055-253-7788
mail@seiai.net



書き下ろし連載27
光を浴びて
マタイ福音書4章16節

細井保路
                

   イエスさまが活動を始められたという箇所で、旧約聖書のイザヤ書9章が引用されています。「暗闇に住む民は大きな光を見た」。この預言的な言葉が実現して、いよいよ救い主がやって来た、という意味を込めているのです。

   ところが、ヨハネ福音書の1章5節では、「光は暗闇の中で輝いたのに、暗闇は光を理解しなかった」と書かれています。多くの人が、イエスさまからは救いのメッセージを聞き取れなかったのです。でも、この言葉には、もっと深い意味があります。

   そのことに気づいたのは、最近夜中にジョギング(ほとんどウォーキングなのですが)を始めてからなのです。真っ暗な夜道を歩いていると、向こうから来る自動車の光は、眩しいだけで、ものがよく見えるどころか、かえって何も見えなくなってしまいます。でも私が街灯などの発光源の下に来れば、あたりは照らされ、見えるようになるのです。つまり、光は、真っ向から眺めるためにあるのではなく、光の下に立って周囲を見るためにこそ輝いているのです。慈悲深さが欲しければ、それを探し求めるのではなくて、自分が慈悲深いまなざしのもとに立てばいいということなのです。

   困っている人を助けなさいとか、ボランティア活動をしなさいとか言うこととも違います。無私の精神が大事なのではないのです。イエスさまは、わざわざ「お前は報いを受ける」とおっしゃるのです。報いを大いに期待しろとおっしゃるのです。そして、確かに、人に優しくして、相手の中にいとおしい魅力を見つけたとき、私たちは、ああ人間って素晴らしいな、と思えるのです。毎日、人間って素晴らしいな、人生って愉快だな、と感じながら暮らせたら、それはもう本当に大きな「報い」なのではないでしょうか。

   イザヤ書はそのことを、いろいろな表現で書き記しています。
「飢えた人にパンを与え・・・同胞に助けを惜しまなければ、あなたの光は曙のように射し出で、あなたの傷は速やかにいやされる。」
「苦しめられている人の願いを満たすなら、あなたの光は、闇の中に輝き出で、あなたを包む闇は、真昼のようになる。」
(いずれもイザヤ書58章より)

   私自身が光の中に立つこと、それが何よりも大切なのです。温かいまなざしを手に入れれば、周囲を温かく照らすばかりでなく、自分の心の傷も癒されるのです。暗闇の側に立つのではなく、光のもとに立つことを心がけましょう。家庭の中で、自分自身が優しさを身に帯びれば、周囲は自然に輝きだすということを忘れないようにしましょう。 


戻る



Copyright © 2010, SEIAI Yochien.
本ページと付随するページの内容の一部または全部について聖愛幼稚園の許諾を得ずに、
いかなる方法においても無断で複写、複製する事は禁じられています。
mail@seiai.net