「この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」とイエスさまはおっしゃいます。
水を一杯飲ませてあげるだけで救われるというのなら、こんなに簡単なことはありません。でも、それこそが、真実なのです。
人が幸せになるために、人が救われるために、何か特別なことが必要なわけではないのです。目の前の人を大切な人だと思う、助ける価値のある存在だとして受け入れる、ただそれだけが、人が救われるための秘訣だというのです。水を差し出すというのは、そのことを象徴的に表わしています。
清く正しく生きるとか、社会に有用な人間として生きるとか、健康に留意して生きるとかいうことは、素晴らしいことではありますが、いくらそれが実現できても、気持ちがすっかり満たされることはないのです。むしろ、失敗だらけの人生でも、人に一杯の水を、微笑みを、共感の言葉を与えることを繰り返していけば、私たちの心は、どんどん豊かになっていくのです。
困っている人を助けなさいとか、ボランティア活動をしなさいとか言うこととも違います。無私の精神が大事なのではないのです。イエスさまは、わざわざ「お前は報いを受ける」とおっしゃるのです。報いを大いに期待しろとおっしゃるのです。そして、確かに、人に優しくして、相手の中にいとおしい魅力を見つけたとき、私たちは、ああ人間って素晴らしいな、と思えるのです。毎日、人間って素晴らしいな、人生って愉快だな、と感じながら暮らせたら、それはもう本当に大きな「報い」なのではないでしょうか。
同じ聖書の箇所には、「正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。」とも書かれています。つまり、自分が立派にならなくても、立派な行いの人を妬んだりバカにしたりせず、「ああ、立派だね。」と素直に感心するなら、それだけで豊かな気持ちになれるのです。まず、身近なわが子が隠し持っている魅力のファンになりましょう。
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