「自分の命を救いたいと思う者はそれを失い、わたし(神のことを伝えるイエスさま)の
ために命を失う者はそれを得る。」とイエスさまは言われました。禅問答のような
むずかしい言葉に聞こえますが、そのあとに続く言葉が、この言葉の意味を解くカギと
なります。
「全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろう。」というのが、
その言葉です。
宗教的な言葉というのは、いつも「自我を捨てよ」とか「人のために生きよ」とか
言っているように思ってしまいますが、このイエスさまの言葉をよく読むと、
むしろ「自分は大切だ、それを守りなさい」と言っていることに気づくのです。
愛されたい、認められたい、褒められたい、という思いは誰にもあります。
そしてそれは決して悪いことではなくて、「神」や「天」という言葉で
表わされているような大いなるものに愛されるために生きるならば、
わたしたちのその欲求は豊かに満たされることになるのです。
反対に、この欲求を人に向けるならば、それは自分の利益ばかりを考えて、
他者から奪うばかりの欲望になり、幸せになるどころか、結局、荒んだ気持ちのまま
不幸になってしまうのです。
ただし、ここで問題なのは、「神の愛」に気づくためには、まず人と人との間で、
愛されたい、認められたいという欲求が満たされる経験がどうしても必要だと
いうことです。そのうれしい経験が積み重ねられていくうちに、いつか、私たちの
命の根源にあるもっと大きな愛の力に気づいていくのです。
そして、ひとたび、そのことに気づけば、愛情に飢えて人から奪う必要はなくなるのです。
修業の果てに自我から解放されるのではなくて、愛される経験を通して、
人間の欲求は自然によい方へ向かうのです。だれもが、理屈ではなしに
そのことに気づいているはずです。
わが子の欲求が、豊かな人間性に結実するように、わが子を愛し、認め、
褒めてあげましょう。
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