学校法人 聖愛幼稚園
〒400-0071
山梨県甲府市羽黒町618(地図
TEL 055-253-7788
mail@seiai.net



書き下ろし連載17
もったいない?
マタイ福音書13章1〜9節

細井保路
                
 その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。 すると、大勢の群集がそばに集まって来たので、イエスは 舟に乗って腰を下ろされた。群集は皆岸辺に立っていた。イエスはたとえを用いて 彼らに多くのことを語られた。
 「種を蒔く人が種蒔きに 出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が 来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない 所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、 日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの 種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。 ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、 あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍 にもなった。耳のある者は聞きなさい。」

   イエスさまは少し変わった種まきのたとえ話をされました。 一人の男が種まきに出かけ、道端にも、石ころだらけのところにも、 雑草だらけのところにも、そしてもちろんよく耕した畑にもまきました。 当然よく耕した畑の麦はよく実り、他の種は育ちません。

   種は「神さまのことば」だと説明されています。 もう少し広くわかりやすく解釈すれば、「神さまからの恵み」だと言っても いいでしょう。そして、この話を聞くと、どうしても、 「私は恵みを上手に受け取って生かしていない、 雑草だらけの土地のような心の状態だ」と反省してしまうのです。

   その反省は、無意味ではありませんが、イエスさまがこの話を なさった意図は、もっと深いところにあったはずだと思うのです。 大切な種を、ちゃんと育ちそうもないところにわざわざまくことは、 普通はしません。無駄なこと、不経済なことはしないのがいいにきまっているのです。 でも、その私たちの常識の線上に、神さまの姿は見えてこない。 イエスさまは、そのことに気づかせようとなさったのです。

   神さまの愛、恵み、ゆるしは、人間が考えているようなちっぽけな ものではないのです。無駄を承知で、惜しげもなく与えられているのです。 それに気づかず、理解しないのは、心の狭い私たち人間のほうなのです。 神さまの恵みに気づかない人たちにも恵みは注がれ続けます。 気づいても恩知らずな人たちにも恵みは注がれ続けます。 私たちは役に立つかとか、能力があるかという尺度で人を見がちですが、 神さまの目には、ダメな人間は一人もいないのです。だから、恵みとゆるしは 与えられ続けるのです。そしてそれを上手に受け取ることができる人がいるなら、 この世界に愛が、ゆるしが、もっと豊かにあふれ出るはずなのです。

   エコ・ブームはすばらしいことですが、心の広さだけはエコ・ブームに乗せてはなりません。


戻る



Copyright © 2009, SEIAI Yochien.
本ページと付随するページの内容の一部または全部について聖愛幼稚園の許諾を得ずに、
いかなる方法においても無断で複写、複製する事は禁じられています。
mail@seiai.net