その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。
すると、大勢の群集がそばに集まって来たので、イエスは
舟に乗って腰を下ろされた。群集は皆岸辺に立っていた。イエスはたとえを用いて
彼らに多くのことを語られた。
「種を蒔く人が種蒔きに
出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が
来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない
所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、
日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの
種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。
ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、
あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍
にもなった。耳のある者は聞きなさい。」
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イエスさまは少し変わった種まきのたとえ話をされました。
一人の男が種まきに出かけ、道端にも、石ころだらけのところにも、
雑草だらけのところにも、そしてもちろんよく耕した畑にもまきました。
当然よく耕した畑の麦はよく実り、他の種は育ちません。
種は「神さまのことば」だと説明されています。
もう少し広くわかりやすく解釈すれば、「神さまからの恵み」だと言っても
いいでしょう。そして、この話を聞くと、どうしても、
「私は恵みを上手に受け取って生かしていない、
雑草だらけの土地のような心の状態だ」と反省してしまうのです。
その反省は、無意味ではありませんが、イエスさまがこの話を
なさった意図は、もっと深いところにあったはずだと思うのです。
大切な種を、ちゃんと育ちそうもないところにわざわざまくことは、
普通はしません。無駄なこと、不経済なことはしないのがいいにきまっているのです。
でも、その私たちの常識の線上に、神さまの姿は見えてこない。
イエスさまは、そのことに気づかせようとなさったのです。
神さまの愛、恵み、ゆるしは、人間が考えているようなちっぽけな
ものではないのです。無駄を承知で、惜しげもなく与えられているのです。
それに気づかず、理解しないのは、心の狭い私たち人間のほうなのです。
神さまの恵みに気づかない人たちにも恵みは注がれ続けます。
気づいても恩知らずな人たちにも恵みは注がれ続けます。
私たちは役に立つかとか、能力があるかという尺度で人を見がちですが、
神さまの目には、ダメな人間は一人もいないのです。だから、恵みとゆるしは
与えられ続けるのです。そしてそれを上手に受け取ることができる人がいるなら、
この世界に愛が、ゆるしが、もっと豊かにあふれ出るはずなのです。
エコ・ブームはすばらしいことですが、心の広さだけはエコ・ブームに乗せてはなりません。
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