イエスさまの時代には、週に一度、安息日には働いてはならないという
宗教上の掟がありました。しかし、イエスさまは、そのルールをたびたび
破るのでした。この聖書の箇所では、わざわざ安息日に手の不自由な人を
癒されるのです。しまいには、当時の指導者たちは、イエスさまを
殺そうと考え始めました。反感を買ってまで、休日のルールを破った
イエスさまの行動には、とても重大な動機がありました。それは、
ルールや作法よりも、人を大事にする、ということでした。
そもそも、ルールや作法は、人がお互いに不快な思いをしなくてもいいように
作られたもののはずです。つまり、相手を大事にするからこそ生まれてきたの
です。でも、そのルールをまだ知らない人を、ルール通りに行動できなかった
からといって責めることはできるでしょうか。あるいは、作法通り動けない
障害のある人を、無作法だといって仲間外れにすることが許されるでしょうか。
私たちは、知らず知らずのうちに、ルールによってお互いを守るのではなく、
ルールを守らない人を責めて、仲間外れにするために、人の行動を監視するように
なってしまうのです。社会の根底に、一人ひとりを大切にするやさしさが育って
いない限り、どんなに立派なルールができても、それは人を互いに縛る道具に
しかならないのです。子どもたちに、ルールや作法を教えるのと同じ熱意で、
「人を大事にする」精神を教えなければいけないのです。
イエスさまが安息日の掟を破るのを非難する人たちに向かって、イエスさまは、
「自分の飼っている羊が穴に落ちても、休みの日だったら助けないという人は
いるか?」と挑みかかります。別の所では、「わが子が井戸に落ちても助けな
いか?」ともおっしゃっています。ルールや作法を無視していいのではなく、
それを、人のミスを責めるための道具にしないことこそが大事なのです。
まず、人を大事にするという精神を、親から子へ伝えていきましょう。
戻る