イエスさまは、たとえ話をよくなさいました。なかでも、「放蕩息子」の話は
有名です。
ある人に、2人の息子がいて、弟は、自分が将来貰うはずの財産を先に分けてもらい、
未知の楽しみを求めて家を飛び出します。でも、お金を使い果たしてしまい、
そこで初めて、窮屈に感じていたお父さんのところにいることが、
実は幸せだったのだと気づきます。
親子の縁を切られる覚悟で、家に帰ると、なんとお父さんは、
過去の恩知らずな態度をとがめもせずに、大喜びでその息子を迎え入れるのです。
遊びほうけた息子は、神さまにゆるされる私たちの姿を表しているので、
「放蕩息子」のたとえ話と言われるのです。しかし、この話は、息子が
無事に帰って来たところでは終わりません。
兄の方は、まじめにお父さんのもとで働いていましたから、弟のデタラメな
生活が全部帳消しにされるのが許せません。そこで、弟の無事を祝う宴会の席に、
入って行こうとしないのです。この気持ちは、私たちもよくわかりますね。
そのとき、お父さんは、彼をなだめながら、こう言います。
「お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。
だが、お前のあの弟はいなくなっていたのに見つかったのだ。」
このたとえ話が、まず伝えたいのは、「神さまがわたしたちをゆるしてくださる」
ということです。でも、「お前はいつもわたしと一緒にいる」という言葉に、
もうひとつのメッセージが込められているのを読み落としてはなりません。
イエスさまは、「神さまはいつも共にいてくださる」というメッセージを
携えて来た方なのです。「神は共にいる、だから、私たちも共に助け合って
生きよう。」と呼びかけておられるのです。
「共に生きる」、「共に育つ」ことの大切さは、誰でも知っていますが、
イエスさまは、その根拠として、「神が共にいてくださる」ということを
忘れるな、とおっしゃっているのです。
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