食卓を囲む子らは、オリーブの若木
(詩編一二八編三節)
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この夏、教育関係のセミナーに出席して、
ある高名な精神科医から子どもの育て方について興味深い話を聞く
機会がありました。いくつかの事例の中で、私がとくに関心を抱いたのは
「食育」という言葉です。現代はいろいろな意味で、「食」が問題に
なっています。中でも幼児期の「食」のあり方が問われています。
偏った栄養、保存料、着色料、甘味の多すぎるお菓子類など幼児をとりまく
「食」の環境は、昔とずいぶん違ってきています。
その精神科医は「食育」の大事さを強調しています。
「食育」とは「教育」「体育」に並ぶ言葉です。「食」を通して
心身ともに健やかな子どもに育てるには何が大切か。「食育」は
三つの事柄が大切だ、というのが先生の指摘でした。
第一は、きちんとした食事をとること。(三度の食事をきちんととる。間食はいけない)
第二は、楽しい食事。(家族揃って楽しい会話を交え、温かな雰囲気で食事をすると、幼児の身体とこころに栄養分が豊かに行き届く。)
第三は、正しい食習慣。(偏食、不規則な食事の仕方は悪い影響を与えてしまう。)
昨今、わたしたちの生活は年々忙しさに追われ、家族が食卓を囲んで、会話を楽しみながら、ゆっくりと食事をする習慣がなくなっているように思えます。皆さんのご家庭はいかがでしょうか。
「孤食」という言葉を、度々、耳にします。独りぼっちで淋しく食べることを「孤食」と言います。高齢者や単身赴任の父親、独身者の食事の風景には孤独が淋しげな影を落としています。それでも仕事の事情などで大人の「孤食」は止むを得ないケースがあります。
だが、子どもの「孤食」はいけません。お腹の飢えは満たせても、こころの飢えは満たせないからです。淋しさを慰め、元気づけるのは母親の愛情であり、家族です。父親も、母親も忙しいのはわかっていますが、子どもが幼いうちは、まず、家族揃って食事をするように心掛けたいものです。
今回取り上げたのは旧約聖書詩編一二八編三節です。
〈食卓を囲む子らは、オリーブの若木〉
神様に祝福された家族の食事の風景が目に浮かびます。食事を囲んでるのは幼子を中心にした家族です。幼子たち(兄妹かな、姉弟かな)の会話、幼子と親たちの楽しい話声が聞こえてきそうです。けっして贅沢ではなくとも、母親の愛情がたっぷりと注がれた食事を感謝して口にする幼子たちの笑顔が想像できます。まことに、よい「食育」の風景です。こうして育てられた子どもたちは、きっと心身ともに健やかに成長することでしょう。そのことを期待して詩編の作者は〈子らはオリーブの若木〉と詠っています。オリーブは地中海地方ではさかんに植えられ、人々の食生活を豊かにしました。オリーブは、神の祝福と繁栄の象徴と言われています。
豊かな「食育」で育った子どもは、オリーブの若木のように、神様の祝福と恵を受けて成長し、将来、すばらしい果実を実らせる。「食」と「食卓を囲む家族」の大切さを、聖書はわたしたちに教えてくれています。
思うに、イエス・キリストは「食」と「食育」を大切にされていた方でした。新約聖書の福音書には、イエス・キリストが色々な人と食事を共にされた話がたくさん書かれています。中でも、イエス・キリストは社会から疎外され、家族から見放されて「孤食」の淋しさ、苦しさを背負っている人と、努めて一緒に食事をし、そうした人々を慰め、励ましました。イエス・キリストは「天国」は彼岸のものでなく、今、楽しく食事をしている「この場所」(交わり)の只中にあるとおっしゃっているように思えます。
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新堀 邦司(にいほり・くにじ)先生